史建瑭

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史 建瑭(し けんとう、876年 - 921年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は国宝。本貫代州雁門県[1]

史敬思の子として生まれた。父の蔭官により若くして李克用の軍門に仕えた。光化2年(899年)、昭徳軍をつかさどった。李嗣昭とともに汾州を攻め、率先して城壁を登り、叛将の李瑭を捕らえた。検校工部尚書に任じられた。天祐5年(908年)、後梁の将の李思安上党県を包囲すると、建瑭は先鋒となり、総管の周徳威とともに上党県の救援に赴いた。梁軍が上党県を固く包囲し、救援の道を遮断していたため、建瑭は精鋭の騎兵を率いて、伏兵を設けて生け捕りにした。夜間に後梁の陣営を襲撃し、1000人ほどを斬った。天祐7年(910年)、後梁の将の王景仁柏郷県に駐屯していたため、建瑭は周徳威とともに井陘県に進出した。天祐8年(911年)、高邑の戦いにおいて、日が暮れて、梁軍が帰陣しようとしたところ、建瑭は精鋭の騎兵を率いてその陣を落とし、魏州滑州のあいだを挟み撃ちにして、長駆追撃した。夜間に柏郷県に入ると、数千人を捕斬した。功績により検校尚書左僕射を加えられた。軍を返すと、趙州に駐屯した。後梁の将の氏延賞がたびたび趙州の南辺を侵犯したため、建瑭は柏郷県に伏兵を設けて、氏延賞を捕らえた[2][3]

天祐9年(912年)、後梁の朱全忠が自ら蓨県を攻撃してきた。ときに晋王李存勗幽州を攻撃して留守にしていた。梁軍はその兵50万と号して、鎮州定州に侵攻しようとしていた。後梁の将の楊師厚棗強県を包囲し、賀徳倫が蓨県を包囲した。建瑭は麾下の300騎を5軍に分け、梁軍のまぐさを獲る部隊を捕らえた。建瑭は李嗣肱とともに自軍を梁軍の服に着替えさせて、後梁の陣営に紛れ込んだ。日が暮れると、賀徳倫の寨の門で門を守る者を殺し、放火して大騒ぎして去った。この夜、朱全忠は陣営を焼いて退却した[4][5]

天祐12年(915年)、魏博軍が帰順してくると、建瑭は符存審とともに前軍を率いて魏県に駐屯した。天祐13年(916年)、劉鄩元城県で撃破して、澶州を奪った。建瑭は澶州刺史・検校司空・外牙騎軍都将となった。ほどなく貝州刺史・相州刺史を歴任し、徳勝口に駐屯した。天祐18年(921年)、閻宝とともに張文礼を討ち、馬軍都将となった。8月、趙州を奪回し、刺史の王鋋を捕らえた。鎮州に進軍して迫ったが、流れ矢に当たって軍中で死去した。享年は46[6][7][5]

子に史匡翰があった[8][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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