史孝章
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史憲誠の子として生まれた。幼くして聡明で学問を好んだ。元和年間、李愬が魏博節度使となると、孝章は大将の子弟として軍籍に入れられた。孝章は文官の職を求め、都督府参軍に試用された[5][2]。
長慶2年(822年)、父が魏博節度使となると、孝章は士曹参軍に転じて、監察御史を兼ね、緋魚袋を賜った。孝章は父が魏州にあってたびたび朝廷の命に逆らうのを見て、泣いて諫め、順逆の理を説いた。検校太子左諭徳とされ、侍御史を兼ね、魏博節度副使をつとめた。散騎常侍に累進し、御史大夫を兼ね、紫魚袋を賜った。大和2年(828年)、魏博の兵を率いて李同捷の乱を平定し、工部尚書を加えられた。大和3年(829年)、孝章は宮中に赴き、文宗に厚く慰労された。文宗は史憲誠が入朝の意志を示しているのが孝章の発案であることを知って、礼部尚書を加え、魏博から相州・衛州・澶州を分離して、孝章を節度使とした。孝章が着任しないうちに、史憲誠は殺害された[6][2]。
孝章は右金吾衛将軍に起用された[6]。大和6年(832年)、鄜州刺史・鄜坊丹延節度使となった[7]。大和9年(835年)、義成軍節度使に転じた[8]。開成元年(836年)、入朝して右領軍衛大将軍となり、右金吾衛大将軍に転じた[6]。開成3年(838年)7月、邠寧節度使として出向した[9]。10月、病にかかり、邠州から長安に帰る途中で死去した。享年は39。尚書右僕射の位を追贈された[6][10]。