史憲誠
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膂力と武勇で知られ、父に従って魏博軍中の右職を歴任し、監察御史を兼ねた。元和13年(818年)、魏博節度使の田弘正が淄青節度使の李師道を討つと、憲誠は先鋒として4000人を率いて黄河を渡り、陽穀県の城柵を連破した。元和14年(819年)、魏博の全軍が鄆州の城下に迫ると、李師道は追い詰められ、劉悟が李師道の首を斬って魏博軍に投降した。憲誠は功績により御史中丞を兼ねた[1][2]。
元和15年(820年)、鎮州の王承宗が死去すると、田弘正は魏州から鎮州に移鎮した。長慶元年(821年)、王廷湊が田弘正を殺害し、成徳軍ごと反乱を起こした。朝廷は田弘正の子の田布を魏博節度使とし、王廷湊を討伐させようとした。ときに幽州の朱克融が王廷湊を援助したため、田布は軍を掌握できず、長慶2年(822年)に自殺した[3][2]。
憲誠は中軍都知兵馬使となり、河北の人心を掌握して、諸軍を魏州に帰らせると、魏博節度使に擁立された。朝廷にも追認された。ときに朱克融と王廷湊が反乱側にあり、憲誠は朝廷側に立ったが、実際には朱克融や王廷湊と協力していた[4][2]。
李㝏の乱が起こると、憲誠はひそかに李㝏と文通した。憲誠は李㝏に節度使の位が与えられるよう朝廷に工作し、出兵して李㝏を支援しようとした。朝廷の派遣した司門郎中の韋文恪と会うと、憲誠の態度は驕り高ぶっていた。まもなく李㝏が部下に殺害されると、憲誠は態度を改めて韋文恪にへりくだった。ほどなく尚書左僕射を加えられた。長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、憲誠の官秩は検校司空に進んだ[4][5]。
宝暦2年(826年)に滄景節度使の李全略が死去すると、その子の李同捷が留後を称した。李同捷は異動の命令を受け入れなかったため、大和2年(828年)に朝廷は李同捷を討つこととなった。先だって憲誠は李全略の親族と婚姻関係を結んでいたため、李同捷が叛くと、ひそかに糧食を援助した。文宗はたびたび使者を派遣して憲誠を説得し、ほどなく憲誠は同中書門下平章事を加えられた。憲誠は大将を朝廷に派遣して、自分を大きく見せようとしたが、宰相の韋処厚と弁論して挫かれた。憲誠は大将の丌志沼に2万の兵を与えて徳州を攻撃させた。大和3年(829年)、丌志沼は叛いて、貝州を攻撃したが、義成軍節度使の李聴に敗れて王廷湊のもとに逃れた。李同捷の乱が平定されると、司徒を加えられた。憲誠は不安に陥って、子の史孝章を入朝させ、魏博の地を返還したいと申し出た。文宗は喜び、憲誠は侍中を加えられ、千乗郡公に封じられ、河中節度使に異動することとなった。しかし魏州を出ることなく、6月26日夜に魏博の軍衆に殺害された。太尉の位を追贈された[4][5]。