司馬防
中国後漢末期の政治家、司馬懿の父
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生涯
性質は質実剛健、寛いでいる時も威厳を崩さなかった。息子たちは成人した後であっても、言いつけがなければ部屋に入ることも、座ることも、発言することも許されなかった。
尚書右丞の官にあった時、孝廉に挙げられていた若き日の曹操を、洛陽北部都尉に起用した[3]。
初平元年(190年)には治書御史の官にあった。董卓が後漢の実権を握り、洛陽から長安への遷都を強行したためそれに従うことになったが、長男の司馬朗に命じ家族は帰郷させた。
州郡に取り立てられ、洛陽県令・京兆尹を歴任。老年になると騎都尉に転任した。自分の生き方を守り、村里にて門を閉ざして晩年を過ごした。
曹操は後漢の実権を掌握し、魏王にまで昇ると、鄴に司馬防を呼び寄せて共に飲食を楽しんだ。曹操は司馬防に、今でも自分を尉に推挙するかと聞いたところ、司馬防が「昔、王を推挙した時は、その官職がちょうど良かったまでのことでございます」と答えたため、大笑いしたという[3]。
建安24年(219年)、71歳で没した。魏帝曹芳の時代にあたる正始3年(242年)、子の司馬懿の功績を嘉し、舞陽成侯と諡された[4]。