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少帝弁

後漢13代。霊帝の長男。 From Wikipedia, the free encyclopedia

少帝辯(しょうてい べん)は、中国後漢の第13代皇帝霊帝何皇后の子。母の何太后と母方の伯父の何進(何太后の異母兄)により擁立され、幼年で即位したが在位期間は4か月余りであった[1]

国名 後漢
在位期間 光熹元年4月13日 - 昭寧元年9月1日
189年5月15日 - 9月28日
都城 雒陽(洛陽
姓・諱 劉辯
概要 少帝 劉辯, 国名 ...
少帝 劉辯
後漢
第13代皇帝
国名 後漢
在位期間 光熹元年4月13日 - 昭寧元年9月1日
189年5月15日 - 9月28日
都城 雒陽(洛陽
姓・諱 劉辯
諡号 弘農懐王
生年 熹平5年(176年
没年 初平元年1月12日
190年3月6日
霊帝
何皇后
年号 光熹189年
昭寧189年
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生涯

霊帝貴人何氏との間の子として生まれた。霊帝の子供の多くは早世したため、幼い頃から宮外で育てられた。道士史子眇の養子になり、史侯と呼ばれる。

母は霊帝に寵愛され、やがて皇后に立てられ、その親族も外戚として重用した。しかし霊帝は、暗愚な辯よりも、次男の協(後の献帝)の方を高く評価していた。そのため辯は、嫡出子で長男であっても霊帝の在位中に後継者(皇太子)として認められておらず、これが後の悲劇を招いた。

父の霊帝の崩御により、母の何太后と母方の伯父の何進(何太后の異母兄)により擁立された。しかし、何進が中常侍張譲らにより暗殺され、さらに中常侍をはじめとする宦官袁紹によって皆殺しにされた後、洛陽を占拠した董卓により廃位され、弘農王に封ぜられた。その後、董卓の専制に反発した諸侯による反董卓連合軍が起こると、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺され、崩御した。

在位わずか4カ月に過ぎず、また地方豪族の一人に過ぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上、後漢王朝が滅亡したことを意味している。

のちに「弘農懐」の諡号を贈られたため、実質的に皇帝とは認められなかったことになる。代に書かれた『三才図会』に掲載されている後漢王室の系図でも、劉辯の存在は省かれている。『三国志』魏志「王朗伝」によると、曹操が劉辯の墓前を通ったとき、皇帝陵として参拝すべきか否か、付き従っていた董遇に訊いた。すると董遇は「皇帝ではないと見なされますので参拝は不要です」と述べたため、曹操はその意見に従っている。

三国志演義での少帝

小説『三国志演義』では、劉協(後の献帝)よりも若干年上の少年である。劉協の方が聡明さがあり、逆に劉辯は暗愚であったため、廃位された後、何太后とともに李儒により高所から突き落とされ、殺害されることになっている。

なお、『三国志演義』やその派生作品などでは幼帝扱いにされているが、即位当時の年齢13歳というのは、後漢の歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高年齢にあたる[注 1]。これは、後漢に幼少の皇帝が多かったことを示すものである。

后妃

  • 唐姫 - 劉辯の死後、李傕に妻になるよう迫られたが拒否した。のちに献帝により弘農王妃に封じられた。

脚注

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