吉安満定 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 慶長2年12月23日(1598年1月30日)別名 通称:太郎兵衛 凡例吉安満定時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 慶長2年12月23日(1598年1月30日)別名 通称:太郎兵衛主君 冷泉元豊→元満氏族 多々良姓大内流冷泉氏庶流吉安氏父母 父:吉安豊英子 定俊テンプレートを表示 吉安 満定(よしやす みつさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏家臣である冷泉氏の一門で家老。 大内氏家臣・冷泉隆豊の弟である吉安豊英の嫡男として誕生[1]。従兄弟の冷泉元豊・元満兄弟に仕え、各地に従軍した[1]。 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役で冷泉元満が毛利秀元に従って朝鮮半島へ渡ると、満定も元満に従った[1]。しかし、同年12月22日、蔚山城の戦いにおいて明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000による急襲により、元満は配下の将兵や同じく毛利氏家臣である阿曽沼元秀、都野家頼と共に戦死した。 この時、満定は他用のために元満とは離れていたが、元満が戦死したことを知ると直ちに戻って敵軍を追い払い、元満や冷泉家臣の遺体を船に収容して日本に送還した[1]。その後、満定は蔚山城に入城し、翌12月23日の攻防戦において冷泉氏家臣である伊賀崎満重や白松満明と共に戦死した[2]。 慶長3年(1598年)1月7日、安国寺恵瓊と福原広俊は毛利輝元の側近である榎本元吉に書状を送って、冷泉元満の戦死と元満の子・元珍の家督相続について述べると共に、満定の働きを比類無き仕合で前代未聞のことと述べ、特別に褒美を取らせるよう述べている[3]。さらに同年2月25日には輝元が元珍に対する書状で元珍の家督相続を認めると共に、満定の働きを比類無き覚悟と称賛し、子を取り立てて養育することが肝要であると述べている[4]。これを受けて満定の嫡男・定俊は取り立てられて毛利氏家臣となった[1]。 脚注 注釈 出典 1 2 3 4 5 『閥閲録』巻72「冷泉勘右衛門」家譜。 ↑ 周東町史 1979, p. 177. ↑ 『閥閲録』巻72「冷泉勘右衛門」第1号、慶長3年(1598年)比定1月7日付け、榎中太(榎本中務大輔元吉)宛て安国寺恵瓊・福式少廣俊(福原式部少輔広俊)連署書状。 ↑ 『閥閲録』巻72「冷泉勘右衛門」第2号、慶長3年(1598年)比定2月25日付け、冷泉宗四郎(元珍)宛て、(毛利)輝元書状。 参考文献 周東町史編纂委員会 編『周東町史』周東町、1979年3月。全国書誌番号:79033717。 国立国会図書館デジタルコレクション 『萩藩閥閲録』巻72「冷泉勘右衛門」 Related Articles