吉田兼倶
室町時代中期から戦国時代の神道家
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吉田 兼倶(よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。卜部兼名の子。官位は従二位・非参議。本姓は卜部氏。吉田神社の神主。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者[注 1]。
30代で応仁の乱に遭遇し、動乱の時代の中で宗教家としての半生を過ごした。兵火による吉田神社の焼失後、吉田山山上に境内を移し、本社正殿の復興に先んじて斎場所(大元宮)を建立。各地の神道祭祀が衰微した戦乱期に、新たな神道説である「吉田神道」を創始して同家繁栄の基礎を築いた。
家学である古典の知識に加え、奇抜な着想と大胆な実行力、また並外れた政治力を発揮したことから、後世の研究者から「乱世を生きる宗教家」「未曽有の野心家」「神道界屈指の人物」などと評される[3][4]。
経歴
生い立ちと初期の活動
永享7年(1435年)、神祇権大副であった卜部兼名の子として生まれる。初名は兼敏(かねとし)[5]。卜部氏は亀卜道の家として神祇官で勢力を得た家系であり、平安時代中期の卜部兼親・卜部兼国の時代に吉田・平野の2流に分かれた。吉田卜部氏は吉田神社祠官を、平野卜部氏は平野神社祠官を務め、氏長者はこの2流が交替で受け継いだ[6][7]。
『康富記』によれば兼敏は、文安4年(1447年)9月、13歳にして伊勢神嘗祭幣帛使を務めており、これが文献上の初見である[7][8]。宝徳元年(1449年)5月の軒廊御卜(朝廷での卜占)においては、父・兼名、兄・兼香とともに、宮主の職で奉仕する[8]。文正元年(1466年)、名前を兼倶に改める[9]。この年の12月、後土御門天皇即位にあたっての大嘗会において、卜部として中心的役割を果たす[8]。応仁元年(1467年)、昇殿を聴され、侍従・神祇権大副に任ぜられる[7]。このように、応仁以前の兼倶の業績は岡田莊司の言葉を借りるならば「卜部氏嫡系として順調な道」をたどるものであり、吉田神道成立にあたる特筆すべき事績は見あたらない[7]。
吉田神道の創唱
兼倶が吉田神道を創唱する契機となったのは、応仁元年に起こり、文明9年(1477年)までおよそ10年にわたり続いた応仁の乱である[10]。応仁元年の6月には兼倶自邸に強盗が入り、放火したことをきっかけに京中が大火となったほか、翌年7月には畠山・大内・一色ら西軍が吉田神社に放火し、社人を殺害した。当時32歳であった兼倶は、この出来事に一時逐電するほどの衝撃を受ける[11]。文明年間初期には兼倶は経典の偽作をはじめ、自邸にその祭祀施設である斎場所を建てる[12]。兼倶により創始されたこの独自の神道のことを、吉田神道(唯一神道、卜部神道、元本宗源神道とも)という[13]。
文明8年(1476年)以降、兼倶は「神祇管領勾当長上」「神祇長上」「神道長上」などを名乗り[7]、自らが神祇道の長である旨を主張した[10]。彼は自らの先祖にあたる卜部兼延、卜部兼直などに仮託した偽書を執筆するなどして自説の展開を図り[10]、さらには後土御門天皇、勝仁親王をはじめとする公家・殿上人、将軍家、禅僧など幅広い人物に神道文献および『日本書紀』の伝授をおこなった。兼倶は後土御門天皇への進講の功により、従二位に昇叙した[7]。文明10年(1478年)には兼倶が「神武天皇以来日本国中の神祇を祀る所」であると論じた斎場所が吉田山山麓に鎮座され、文明16年(1484年)にはその根本の神であるとする「虚無大元尊神」を祀る斎場所大元宮が設立された[10]。文明19年(1487年)には吉田神道の根本伝書となる『唯一神道名法要集』『神道大意』が著わされた。延徳元年(1489年)には伊勢神宮の神器が吉田山に降臨したと密奏する(延徳密奏事件)も、これは三条西実隆ら公卿、神宮祠官を憤慨させた[7]。明応8年(1499年)に42歳で死去した子・兼致のために吉田山に寺院「神龍院」を創設し、その長老に息子の妙亀を就けた[14]。神龍院はその後梵舜など吉田家の人間が跡を継いだ[14]。

永正8年2月19日(1511年3月18日)に77歳で死没し、その遺骸は斎場所太元宮の北方に葬られた[7]。神竜大明神と号され、神竜社が建立された[10]。孫に吉田兼右[15][16]。兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道や伊勢神道に対抗する意図があった[17]。兼倶は、吉田神道の主張を通じて、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし、室町幕府にも取り入って権勢を拡大し、神道界の権威になろうとした[18]。
備考
著書
- 『神明三元五大伝神妙経』:吉田神道の経典。
- 『唯一神道名法要集』:吉田兼倶の主著。吉田神道の経典。卜部兼延に仮託されている。
- 『神道大意』:文明18年(1486年)。『神道大系』論説篇卜部神道(上)所収。『吉田叢書』第1篇所収。
- 『神道大意』:吉田兼直に仮託されている。
- 『神宗国源論』
- 『十八神道源起抄』
- 『日本書紀神代巻抄』:『日本書紀』神代巻の注釈書。
- 『神名帳頭註』:『延喜式』神名帳の注釈書。
- 景徐周麟『中臣祓聞書』:景徐周麟が記した吉田兼倶の講義ノート。『神道大系』古典註釈篇中臣祓注釈所収。
- 『中臣祓抄』:吉田兼倶の講義ノート。
- 『番神問答記』:日蓮宗側と問答する相手とされている[24]。