吉田名保美
日本の芸能プロモーター (1926-1987)
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来歴
吉田の若い頃の経歴は不明な点が多いが、安倍寧(音楽評論家)によると石田一松(演歌師)が国会議員になった際に秘書をしており、その関係で芸能界に携わるようになったという[3]。
昭和30年代は有島一郎や南道郎のマネジメントをしており、大阪から東京に出てきた森光子も菊田一夫が吉田に預けたという[3]。
1966年(昭和41年)、東宝から森とともに独立し、吉田名保美事務所を設立[1][4]。
マネジャー時代に培った人脈と企画力を駆使し、さらに歌舞伎から商業演劇にまで幅広いアンテナを持ち、同事務所を一流の芸能プロダクションに育て上げた[1]。全盛期には桃井かおり、大和田伸也[5]、井上順[6]、沢田亜矢子、波乃久里子、松原智恵子、佐久間良子、黒柳徹子、和泉雅子、平幹二朗、森光子ら有名な俳優・女優を抱え、大物女性プロモーターとして業界では有名だった。特に森光子と黒柳徹子を超一流の芸能人に育てた功績は大きい。また、同事務所にこそ所属していないものの、竹下景子の後見人的存在でもあった[7][8]。
本多圭(芸能ジャーナリスト)は同事務所について「山口智子や天海祐希らが所属する「研音」以前に、“女優の宝庫”と称された、日本を代表する芸能事務所だった。」と述べている[9]。また、残間里江子は吉田について「吉田事務所を避けては日本でテレビドラマはつくれない、といわれるほど豊富な人材を抱える大きなマネージメントオフィスの社長だった。」と述べている[10]。
没後
森光子との関係
黒柳徹子との関係
1967年(昭和42年)、黒柳徹子はNHKから独立する際に森光子から誘われて吉田名保美事務所に所属し、多忙を極めたが、「一度、休んで、ゆっくり考えたりする時間が欲しいな。」と考えるようになった。そして、吉田に1、2年休みたい、と告げた。吉田はすぐに賛成し、随分先まで予定が入っていた仕事を整理して、黒柳は1971年(昭和46年)秋から1年間、ニューヨークに留学することとなった[4][14]。
吉田は黒柳のニューヨーク留学に際して「黒柳さん、あなたはね、あなたのままで純真な人でいて下さい。面倒なことや嫌なことは、全部私がやります。」と言い切った。収入よりも黒柳の人間的な成長を望んだ[15]。
大平和登(演劇評論家)は東宝の宣伝部にいてニューヨークに駐在していた頃、吉田に密かに頼まれて、ときどき黒柳の様子を見に西57丁目のアパートへ行った。食事もともにしたが、会う度に大平が感心するほど英語が上達していたという[16]。