吉田奈良丸
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2代目
吉田奈良丸(後の吉田大和之丞)(1879年7月27日 - 1967年1月20日)本名は広橋 広吉。
奈良県下市生まれ、父は花川力山という祭文語りの名人。16歳で父の元で節の猛特訓を受ける。1893年に初代に入門し吉田小奈良、1902年に奈良丸を襲名。明治末期から大正にかけての桃中軒雲右衛門、初代京山小円と共に人気を三分した。雲右衛門の影響を受け、義士伝(忠臣蔵)物を多くかけるようになり、得意にする。1910年発売の「赤穂義士伝」のレコードは20万枚を売り[1]、1912年時点でのレコードの総売上は50万枚に達したといわれる[2]。後に流行する俗曲「奈良丸くずし」は奈良丸の「大高源吾」の流麗な節調を真似たものである[3]。1917年には渡米も果たす。1929年に弟子に奈良丸を譲り吉田大和之丞を名乗った。1921年には募金集って大石神社を建立。そのほかにも、京阪神を中心に東京などにも多くの寄席を経営し、財を成す。墓所は岸和田共同墓地。妹は吉田元女、妻は初代春野百合子(後に離婚)、実の子に2代目百合子、春野百合若(廃業)孫は吉田奈良丸嬢(廃業)がいる。弟子も吉田奈良秀、吉田奈良重、吉田宗右衛門、吉田桃太郎、吉田福若、吉田奈良衛、吉田奈良三、吉田奈良男、吉田美芳、吉田広若など100人近くいたといわれ最後の弟子は吉田朝日だといわれる。