桃中軒雲右衛門

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本名山本幸蔵
別名岡元峰吉、吉川小繁
生年月日1873年10月25日
没年月日 (1916-11-07) 1916年11月7日(43歳没)
桃中軒とうちゅうけん 雲右衛門くもえもん
桃中軒(とうちゅうけん) 雲右衛門(くもえもん)
桃中軒雲右衛門
本名 山本幸蔵
別名 岡元峰吉、吉川小繁
生年月日 1873年10月25日
没年月日 (1916-11-07) 1916年11月7日(43歳没)
出身地 上野国高崎
弟子 桃中軒如雲
東家楽燕
酒井雲
活動期間 1903年 - 1916年
活動内容 浪曲師

初代桃中軒 雲右衛門(しょだい とうちゅうけん くもえもん、1873年明治6年〉10月25日[1] - 1916年大正5年〉11月7日[2])は、明治時代から大正時代にかけての代表的浪曲師。亭号は沼津駅の駅弁屋である桃中軒に、名は修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」に由来するとされる[3]。浪曲界の大看板で「浪聖」と謳われた。本名は山本 幸蔵(やまもと こうぞう)だが、岡本 峰吉と名乗ったこともある[1]

略称として「雲」一文字、または「雲入道」がある。雲右衛門独特の重厚なフシ調を「雲調」や「雲節」と呼ぶ[要出典]

群馬県高崎市新田町の山本繁吉の次男・幸蔵として生をうける[4][5]結城あるいは熊谷出身という説は誤りとみられる[1]。父は吉川繁吉という芸名で祭文語りをしており、1876年明治9年)から一家は現在の前橋市上増田町の木村家に寄寓した[4][5]

1887年(明治20年)に一家で上京し、東京市芝区新網町に移住[6][7]。吉川小繁を名乗り、兄・仙太郎や母・ツルの三味線で浅草向柳原籾倉のヒラキで浪花節を上演した[8][7]1890年(明治23年)、品川の山崎亭ではじめて寄席の高座に上る[6][7]。また浪花亭駒吉に教えを受けた[6][7]。父は上京後ほどなく死去したため、1896年(明治29年)に2代・吉川繁吉を襲名し、弟の峰吉が2代・小繁を名乗った(峰吉はのち風右衛門を名乗る)[6][7]。「四谷怪談」「安中草三郎」「佐倉義民伝」「五郎正宗」などを得意とした[6][7]。この時期初代浪花亭愛造と芸や人気を争ったものの、愛造の方が勝っていたという[9][7]

その後、初代三河家梅車の一座に加わっていたものの、梅車の女房・お浜と駆け落ちし1898年(明治31年)2月、京都へ赴く[6][7]。この間桃中軒雲右衛門に改名[6][7]

再び東京へ戻った後、1902年(明治37年)3月に宮崎滔天を弟子とした[6][10]。愛造の人気に劣っていたことが動機ともされるが[9][7]、滔天の影響により雲右衛門は九州行きを決意し、お浜と弟子2人を連れて1903年(明治36年)門司を皮切りに九州巡業を開始する[11][10]。当初は知られていなかった雲右衛門の評判は思わしくなかったが、熊本出身の桃中軒牛右衛門(滔天)の存在もあって、満員となるまで人気を伸ばし日延べして興業を行うほどとなった[11][10]。その過程で従来の関東節に加えて、関西節や、九州で当たりを取っていた美当一調の「糸入り講談」(三味線を伴奏に入れた軍談。浪花節の前駆形態と考えられている)を取り入れ、後の雲右衛門節を生み出していった[要出典]。九州を巡って人気を席巻した後、1907年(明治40年)に九州を出て神戸大黒座で公演を行い、その期間中有栖川宮妃の御前で公演を行ったことで、浪花節の口演を皇族の前で行った初めての人物という栄誉を得た[11][12]。さらに3月から4月にかけて大阪中座天満座で行った興業も大盛況となった[11][12]。1907年(明治40年)6月には東京・本郷座で公演を行うに至り、1ヶ月間にわたり満員札止めとしたという空前の記録を残した[13][12]

この人気の背景としては、日露戦争の戦勝に沸く国民に向けて、武士道鼓吹をスローガンに掲げたことが挙げられる[11][12]。雲右衛門は「義士銘々伝」の台本を小林陶雨鈴木天眼芝尾入真南部露亭らの文士・記者に作成させたことも質的向上につながった[12]。また長髪・羽織・袴というスタイルも、玄洋社を真似て雲右衛門が生み出したものであった[12]。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の劇場への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる[13][12]

当時大人気であったが、要求する吹込料が非常に高額であったため、なかなかレコードが出されなかった[14][15]。そんな中、1911年(明治44年)9月には神戸の時枝商店が「桃中軒雲右衛門節」と銘打った本人によるものではない(「奏演者匿名」と明記)レコードを発売している[16]。ようやく1912年(明治45年)5月19日、雲右衛門のレコードがライロフォン(三光堂)から発売され、これが雲右衛門のレコードデビューとなる。5種の両面レコードが計7万2000枚プレスされた[14][17]

桃中軒雲右衛門の墓(東京都品川区・天妙国寺)。

しかし1913年(大正2年)ごろから、肺結核になり、宮崎の説得で何度か入院をしたが元気になるとすぐに巡業に出てしまい、最後に実子の西岡稲太郎が自宅に引き取って看病するが甲斐なく[要出典]1916年(大正5年)11月7日に死亡した[18][12]。43歳没。大きな足跡を残し、金遣いも非常に荒かったが、晩年は寂しいものであったという。墓所は東京都品川区南品川天妙国寺[12]。戒名は「桃中軒義道日正居士」[19][18]

評価・批判など

桃中軒雲右衛門事件

1912年(明治45年)、三光堂が発売した雲右衛門のレコードの複製盤を発売した業者が、民事・刑事告訴されるという事件が起きた(参照:著作隣接権#著作隣接権の起源[20][21]。第一審・第二審判決は著作権侵害を認定したが、大審院判決は下級審判決を破毀し著作権侵害を否定した[20][21]。というのも当時の著作権法では楽譜は著作物に含むと解されていたが、音楽そのものについては明確でなく、大審院は同じ曲譜が演奏できるような形式の作譜として定着されていなければ浪花節を雲右衛門が作曲作譜したものとは認められないとしたのだった[20]。この判決を受けて、雑誌「蓄音機世界」を主宰する横田昇一はレコード業界に悪影響を与えるという立場から法改正を主張、鳩山一郎らに働きかけを行い1920年(大正9年)に著作権法の改正を実現した[20][21]

評価

浪花節(浪曲)の桃中軒雲右衛門」 桃中軒雲右衛門(1873 - 1916)は、武士道を鼓吹し赤穂義士伝を得意とした。雄渾荘重な迫力ある節調によって人気を博し、浪花節の社会的地位の向上に貢献した。雲右衛門の肖像画と幟が描かれていて、幟には「桃中軒雲右衛門入道」と記され、赤穂義士の着物の模様も見える。「桃中軒雲右衛門といふ浪花節の名人大坂より上京し本郷座に於て30日間興行せしに其席上等を壱円としたるにかゝわらず毎夜客留の盛覧を提し益々浪花節の聲價を高めたるは雲右衛門其者の藝術の妙に依る所と虽も爾来浪花節を以て東京名物の一を示るに至りしは流石雲右衛門の力なりき」と記載あり。清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「浪花節(浪曲)の桃中軒雲右衛門」より抜粋[22]

一方、排外右翼でロシア正教会徒を「売国奴」と呼んだ事などで知られる[23]宮武外骨は、桃中軒雲右衛門を否定的な意味で「穢多芸人」[24]と呼ぶなどの差別発言を行っていた[25]

弟子・血族

死後、「桃中軒雲右衛門」の名を門下の4人(白雲、雲州、雲大丞、野口洋々)がそれぞれ名乗り、混乱が起きた[要出典]

弟子に、桃中軒如雲、桃中軒雲藤、東家楽燕酒井雲、他、孫弟子に、村田英雄、東家三楽、京乃天姫、玉川スミなどがいる。また、孫に、超常現象研究者の中岡俊哉、ひ孫に演芸評論家の岡本和明がいる[要出典]

遺構

  • 大石内蔵助良雄銅像(泉岳寺義士墓所) - 桃中軒雲右衛門の勧進により建立。

桃中軒雲右衛門を扱った作品

戯曲

小説

映画

音楽

  • 桃中軒雲右衛門(三波春夫)
  • 長編歌謡浪曲 桃中軒雲右衛門とその妻(三波春夫)
  • ~桃中軒雲右衛門の妻~お浜(三笠優子

小説等

  • 岡本和明『俺の喉は一声千両―天才浪曲師・桃中軒雲右衛門』新潮社

脚注

参考文献

外部リンク

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