吉田重政
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文明17年(1485年)、六角氏家臣で吉田流(日置流)弓術の祖である吉田重賢の子として誕生する。弟の和泉守、若狭守とともに弓術の名声が高く[4]、重賢とともに足利義晴の弓術指南役を務めた[2]。
その後、主君の六角義賢(承禎)より弓術の伝授を請われるが、日置流は唯授一人を基本としていたため、重政はこれを断った。そのため義賢と不仲になり、代々の領地を離れて一乗谷に移り住み、越前朝倉氏に仕えた[5]。一乗谷では上原高家(豊前守)から弓書を相伝した[注釈 1]。
6年後、朝倉義景の取りなしによって義賢の元に帰参すると、義賢と養子縁組を結び、弓術を伝授した。これにより重政は義賢より7ヶ所の地を宛がわれた。後に義賢は重政の嫡子、重高(露滴)を養子に迎えて吉田流を伝授したという[4][5]。