吉良持広
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略歴
天文4年(1535年)、持広は松平宗家の継嗣松平広忠[注釈 1]が松平一族の紛争で居城・岡崎城を追放されるとこれを保護したと言われ、「三河物語」等では所領のあった伊勢国に招き入れたともいい、今川義元に松平氏救援の執成しをしたとも伝える。また、天文5年(1536年)広忠の三河再入国には持広の家老富永忠安を同国幡豆郡室城に招き入れ、翌6年(1537年)の岡崎城復帰の実現につなげた。松平広忠の元服加冠に際しては名付け親となり、広忠は彼の偏諱を受けたとされる。

隣国尾張の織田信秀の軍事的脅威の懸念のなか天文8年(1539年)持広は死去した。家督は対立する西条吉良氏・吉良義堯の次男で養嗣子の義安が継承した。しかし、これには子細があるようで、後の遠江横須賀藩の祖・西尾吉次の家伝は、持広の生前に西条吉良氏の吉良義尭次男の義安を養子とし、持広の実子であった吉次(もとは義次)は幼児のため尾張に送られ織田氏の人質としてそこで成長したと伝え、のちに西条吉良家を継いでいた義安の兄・義郷が戦死したため、東条吉良家を継いでいた義安が実家の西条吉良領をも兼領したとする。持広が実子(義次)がありながらも西条の義安を養子とした内容から、西条吉良家との和睦を図ったのだと説明されている。墓所は西尾市花岳寺。