吾彦
From Wikipedia, the free encyclopedia
呉の時代
呉王朝に仕え、初め通江吏に任じられた。
次いで下級武官として大司馬陸抗の配下となり、やがて将軍として取り立てられた。その後、幾度か昇進を重ねて建平太守となった。
鳳凰元年(272年)6月頃、晋の益州刺史王濬は呉の征伐を目論み、蜀の地で軍船の建造を開始した。吾彦は長江上流から流れてくる多数の木屑を見て晋が軍船の建造をしていると察知し、呉帝孫晧に対して「晋は確実に攻呉の計を進めております。建平の兵を増やして要衝の地を塞ぐべきです。建平を下せなくば、敢えて長江を渡る事もないでしょう」と上奏し、守備兵を増員して備えるよう訴えたが、容れられなかった。そこで、吾彦は独断で長江に鉄鎖を張り巡らせて江路を遮断し、防備を固めて敵の襲来に備えた。
同年9月、西陵督歩闡が呉に反旗を翻し、西陵城ごと晋に降伏した。10月、陸抗が西陵奪還の兵を挙げると、吾彦は彼の命に従い、将軍左奕らと共に西陵へ侵攻した。12月、呉軍は歩闡救援の為に到来した晋の荊州刺史楊肇を撃破し、さらに西陵を奪還して歩闡を捕らえ、反乱を鎮圧した。
天紀3年(279年)11月、晋軍が6方向より呉征伐を敢行すると、王濬率いる益州軍もまた長江を下り進出を開始した。晋軍の勢いは凄まじく、長江沿岸にある諸城はみな攻略されるか降伏していったが、その中にあって吾彦だけは城を堅守した。晋は大軍でもって攻勢を掛けたが結局攻略する事が出来ず、諦めて軍を三十里後退させ、吾彦の奮戦に敬意を表したという。
天紀4年(280年)3月、孫晧が晋に降伏すると、吾彦はこの事実を知った後に開城して降伏した。
西晋の時代
以降は晋に仕え、武帝より重用された。
初め金城太守に任じられ、次いで敦煌太守となった。優れた統治ぶりにより、その恩恵と威光は甚だ轟いたという。さらにその後、雁門太守に移った。
やがて順陽王司馬暢の下で内史となったが、司馬暢は身勝手な人物であり、過去に何度も内史を誣告しては処刑していた。だが、吾彦は清廉・公正に職務に励み、部下を指導し、刑罰・法律を厳粛に守ったので、人々を大いに畏怖させた。これにより、司馬暢といえどもうかつに誣告することが出来なくなった。その為、司馬暢は吾彦の存在を疎ましく思い、彼を遠ざけるために敢えて上職に推挙した。こうして吾彦は内史職から異動となると、員外の散騎常侍となった。
太熙元年(290年)、交州刺史陶璜が没する[3]と、後任の南中都督・交州刺史となった。陶璜の死に乗じて九真郡では守備兵が乱を起こし、太守を追放する事態になっており、賊の頭目である趙祉は郡城を包囲していた。吾彦は着任するやこれらの掃討に当たり、その全てを鎮圧して乱を平定した。その後、20年余りに渡って交州統治の任にあたり、その威信・恩恵は広く知れ渡り、交州には静穏な時が流れたという。
永嘉元年(307年)12月、成漢と争って暫定的に寧州を統治していた西夷校尉李釗を援護する為、吾彦は子の威遠将軍吾咨を寧州に派遣した。その後、吾彦は自ら上表して他者と職務を交代する事を請い、要請は認められて中央への帰還を命じられ、同時に大長秋[4]に任じられた[5]。在職中に没したという[1][6]。
人物
出自は貧しかったが、文武に才能を有しており、身長は八尺[7](当時の尺度に基づくならば193.6cm)にも及んだという。また、虎に例えられる程のずば抜けた腕力を持っており、猛獣と素手で格闘する事が出来たという。