呉巒

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呉 巒(ご らん、生年不詳 - 944年)は、五代十国時代軍人は宝川。本貫鄆州盧県[1]

経歴

若くして学問を好んだが、郷試に落第した。後唐長興元年(930年)、彰国軍節度使の沙彦珣の下で彰国軍節度従事となり、雲州節度判官に累進した。後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が建国にあたって、契丹の援助を受け、燕雲十六州を割譲することとなった。沙彦珣は雲州で契丹を迎えて捕らえられた。呉巒は城門を閉ざして立てこもり抵抗した。契丹は雲州を半年にわたって攻撃したが、攻め落とせなかった。石敬瑭が契丹に信書を送ったので、契丹は撤退した。呉巒は召還されて、武寧軍節度副使に任じられた。さらに右諫議大夫に転じ、衛州防禦使となった[2][1]。天福8年(943年)、知貝州軍州事をつとめた[3]。天福9年(944年)1月、契丹軍が貝州を包囲した。呉巒は城中の軍民を動員して防戦し、攻城の梯子を焼き落とした。しかし南門を守る邵珂が裏切って契丹を引き入れ、城中が混乱に陥ると、呉巒は公館に取って返して、井戸に身を投げて死んだ。貝州は陥落して皆殺しにされた[4][1]

脚注

伝記資料

参考文献

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