呉漵
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はじめ盛王府録事参軍となった。宝応元年(762年)、開府儀同三司・太子詹事に任じられ、鄄城県公に封じられた。外戚として鴻臚寺少卿・右金吾衛将軍に取り立てられた。建中元年(780年)、右金吾衛大将軍となった。その態度はうやうやしくへりくだり、当時の人に重んじられた[1][2]。
建中4年(783年)、涇原の兵が反乱を起こし、徳宗が奉天に避難すると、呉漵はこれに扈従した。盧杞と白志貞が大臣ひとりを選んで長安に入らせ、朱泚を説得するよう徳宗に上奏した。誰も行こうとする者のない中、呉漵は志願して長安に赴いた。詔を持って朱泚と面会したが、客省に留置されて、殺害された。太子太傅の位を追贈された。諡は忠といった[1][2]。