呉湊
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宝応元年(762年)、兄の呉漵とともに開府儀同三司・太子詹事となり、臨濮県公に封じられた。兄弟で高官を占めることに遠慮して固辞し、低い官位を求めた。検校太子賓客となり、太子家令を兼ね、十宅王使をつとめた。左金吾衛大将軍に累進した[3][2]。
大暦年間、滑亳魏博節度使の令狐彰や汴宋等八州節度使の田神功が相次いで死去すると、藩鎮の兵の横暴が酷くなったため、呉湊は代宗の命を受けて説得にあたり、軍民を協力させた[4][2]。
代宗は収賄に明け暮れる宰相の元載を処断しようと計画していたが、側近が事を漏らすのを恐れて、呉湊ひとりと相談していた。元載を内侍省に収監すると、宰相の王縉やその仲間の楊炎・王昂・韓洄・包佶・韓会らを連座させて、みな処刑しようとした。呉湊は代宗を諫めて王縉らの処罰を流刑に減刑させた[4][5]。
大暦末年、継母が死去したため、呉湊は辞職して喪に服した。建中元年(780年)、右衛将軍として起用され、通州刺史を兼ねた。貞元元年(785年)、入朝して太子賓客となった[4][6]。貞元4年(788年)[7]、福州刺史・御史中丞・福建観察使として出向した。清廉倹約な統治で知られたが、宰相の竇参に憎まれ、中風の病で任に堪えないと誣告された。呉湊は徳宗に召還され、病気かどうか調べられ、竇参の誣告が発覚した[4][6]。貞元7年(791年)[8]、呉湊は陝州大都督府長史・陝虢都防禦観察使となり、竇参の党与の李翼と交代した。貞元8年(792年)、劉玄佐が死去すると、呉湊は検校兵部尚書・汴州刺史・御史大夫・宣武軍節度使に転じた[4][6]。
ときに汴州の軍が乱を起こし、牙将の曹金岸や県令の李邁を殺し、劉玄佐の子の劉士寧を立てようと図った。徳宗は兵を派遣して呉湊を汴州に赴かせようと、宰相に議論させたが、竇参は軍中の反抗を恐れ、呉湊を召還して左金吾衛大将軍に任じ、劉士寧を汴宋節度使に任じた[4][6]。
貞元14年(798年)、関中で旱魃が起こって穀物が騰貴し、民衆の多くが流亡した。京兆尹の韓皐が統治に失敗して左遷された。呉湊は徳宗に召し出されて、京兆尹に任じられた。呉湊は宮中の宦官が長安の市で充分な価格を支払わないことを告発した。また徳宗が文敬太子や義章公主の死去を悼んで、壮大な墳墓を造営し、その役務のために民衆の農業が妨害されていることを諫めた。貞元16年(800年)4月、呉湊は死去した。享年は71。尚書左僕射の位を追贈された。諡は成といった[9][10]。