周原
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周原は周の先君の古公亶父が豳から岐山の南に移住した場所とされる。周の文王は都を豊邑に移し、武王は都を鎬京に移したが、その後も周原は西周王朝の重要な政治的中心でありつづけた[1]。
1976年、岐山県鳳雛村および扶風県召陳村で西周時代の大型建築基壇が2か所、さらに青銅器工房・住居跡・青銅器の穴蔵・墓などが発掘された。数百点の青銅器が出土し、銘文をもつものも100点近くに達した[1]。
近年、黄堆郷の老堡西村で西周後期に属する12基の墓と殉馬坑が発掘され、青銅器・土器・磁器・玉器・骨器・貝器などの文物1100点あまりが出土した[2]。
鳳雛村の建築跡は、版築基壇の上に建つ四合院形式であった。基壇は高さ約1.3m、南北45.2m、東西32.5mで、面積はほぼ1500平方m。平面配置は北に重心を置いて南に臨む「坐北朝南」構造であった[2]。建築跡では地下の排水施設が2か所発見された[3]。鳳雛村の建築跡の年代は、C14年代測定によると、紀元前1095±90年であった[4]。
召陳村の建築跡は、鳳雛村のような四合院形式ではなく、西周初期のものと西周中期のものに分かれていた[4]。3号・5号・8号の建築跡の規模が比較的大きく、いずれも屋根は瓦葺きであった[5]。8号建築基壇の大きさは、東西約22.5m、南北10.4m、最大残長が0.76mで、その上には東西8か所、南北4か所の礎石や柱基礎の痕跡が残り、東西7間、南北3間の建物が想定されている[6]。
1977年から1979年夏にかけて、鳳雛村の建築跡および扶風県の斉家村で17500片にのぼる甲骨片が出土した。内訳は鳳雛村の建築跡11号坑から出土した周代初期の甲骨17000片あまり、同じく31号坑から出土した周代以前の甲骨413片、斉家村出土の文字が刻まれた大亀甲1枚を含む甲骨22片である[7]。そのうち300片に文字が刻まれていた。甲骨に刻まれていた内容は、祭祀や征伐に関する卜辞が主であった。年代的には周代初期のものが多く、文王の時代にさかのぼるものも含まれる。成湯・太甲・文武丁・文武帝乙・周方伯(周の文王)などの殷周の王や畢公・箕子などの人名、蜀・巣・密・楚などの諸侯、河・洛・鎬・帛などの地名に言及するものもあった[8]。
1976年に扶風県の荘白村の穴蔵で出土した「墻盤」は西周中期の共王の時代に製作されたもので、284字におよぶ銘文が鋳込まれている。文王・武王による周の創業が語られ、次いで成王・康王・昭王・穆王および墻の仕えた共王にいたる歴代の周王の事蹟が述べられている。後文には高祖・烈祖・乙祖・亜祖・乙公・墻にいたる墻一族六代の事蹟が語られている[9]。
脚注
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。
- 中国出土資料学会 編『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』東方書店、2014年。ISBN 978-4-497-21411-9。
- 飯島武次『中国考古学のてびき』同成社、2015年。ISBN 978-4-88621-706-6。
座標: 北緯34度29分39秒 東経107度50分34秒 / 北緯34.494169度 東経107.842698度 / 34.494169; 107.842698
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