周玄豹
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代々従事をつとめた家に生まれた。幼くして僧となり、その師に従って十数年遊歴し、袁天綱や許負の術を伝授された。やがて郷里に帰って、還俗した[2]。
盧程が幽州に遊歴して、同志ふたりとともに玄豹に面会した。玄豹はふたりが翌年に死去するであろうことと、盧程が高位にのぼるだろうことを同郷の張殷袞に予言した。その予言どおりにふたりは亡くなり、20年後に盧程は魏州で登用された[3]。
玄豹は晋に帰順し、張承業に重んじられ、たびたび予言を的中させた。あるとき張承業がいつわって李嗣源の衣を変えさせ、諸校の下座に列席させたところ、玄豹は李嗣源を指さして、「骨相が内牙太保どころではありません」といって、人々を驚かせた。また夏夫人が李嗣源の意に逆らって鞭打たれたことがあった。玄豹がこれを見て、「この人は藩侯夫人の位にありますが、貴いお子を生むでしょう」といったので、李嗣源は怒りを解いた。のちに玄豹の予言のとおりになった。河東節度判官の司馬揆が玄豹に面会すると、玄豹は「公は5日のうちに、万里の使節として旅立ち、再び帰ることはないでありましょう」と司馬揆にいった。司馬揆は数日後に酒を楽しんでいたところ、衣に引っかけて死去した。玄豹は荘宗により北京巡官に任じられた[3]。
天成2年(927年)、玄豹は趙鳳に排斥されて、光禄寺卿として致仕した[3]。清泰2年(935年)1月14日[4]、太原府で死去した。享年は八十数歳[3]。