周迪平
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青島特別高等専門学堂(徳華大学)土木工程系[注 2]を卒業し、ドイツ語・英語に長じていた。川漢・京漢鉄道技師、膠澳(青島)商埠工程事務所長、青島港政局長、津浦鉄路局長、陸軍少将、交通司令、膠海関監督、北寧鉄路局材料処処長などを歴任している[1][2]。
中華民国臨時政府の最末期となる1940年(民国29年)2月13日、周迪平は建設総署(署長:殷同)副署長に任命される[2][3]。同年3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会へ改組される。殷同が同委員会常務委員兼建設総署督弁になった後、5月4日に周迪平は建設総署署長代理[注 3]に任命された[4][5]。これにより、周は殷の補佐役と目されるようになる[1]。1942年(民国31年)末に殷が死去した際には、周が弔辞を公表している[6]。
後任の建設総署督弁である余晋龢の下でも周迪平は引き続き同総署署長を務めたが、1943年(民国32年)11月10日に建設総署が廃止された際に[7]、周も署長を免ぜられた[注 4]。その後、華北棉産改進会理事長に転じている。1945年(民国34年)2月20日、張仁蠡の後任として周が天津特別市市長に就任[8]、汪兆銘政権における最後の天津特別市長となった。
日本敗北後、周迪平は漢奸として裁判にかけられ、1946年(民国35年)8月8日、河北高等法院天津分院で懲役12年・公民権剥奪10年の判決を言い渡された[9]。
その後における周迪平の行方は不詳となっている。