和沢村の地名の由来は不明であるが、沢地を新たに開拓しことに因むのではないかとされる。室町時代ころより存在していたとみられる。
応永19年(1412年)に東寺造営料として棟別銭が徴収されたときの記録に、越中国では伊勢氏所領として「かんさわ」という荘園が挙げられている。「かんさわ」という読みの越中国荘園は存在しないが、後述の『蔭凉軒日録』により和沢は伊勢氏領であったと確認できるため、「かんさわ」=和沢村と考えられている。現在「和沢」は一般的に「わさわ」と読まれるが、中世には「かずさわ」と読まれており、これが転訛して「かんさわ」と記録されたものであろう。
『蔭涼軒日録』長享2年(1488年)8月27日条によると、伊勢鶴寿丸跡の「越中国和沢村」 等4か所が、将軍足利義熙から京都の常在光寺に寄進された。その1ヵ月後、9月26日に常在光寺領の代官職を結城越後守が望んだが、「無理之仁也」と称されるような人物であったため失敗したという。
しかし戦国時代に入ると、隣接する蟹谷荘・松永保が越中一向一揆の領袖である勝興寺の実効支配下に入った。この後の和沢村の動向は不明であるが、一向一揆勢と武士勢力の係争地となって荘園としての実態を失っていったようである。
江戸時代に入ると加賀藩領となり、中世の和沢村一帯は和沢郷と呼ばれた。富田景周の『三州地理志稿』によると、胡摩島・西川原・福住・上次郎島・島・和沢・高木出・野寺・下後丞・赤倉・上後丞・金屋本江・金屋本江新の13ヵ村が和沢郷に属するとされる。これらの諸村は明治維新後に富山県西砺波郡の松沢村・水島村・若林村に分かれ、現在はいずれも富山県小矢部市に属している。