和泉屋三郎兵衛

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和泉屋 三郎兵衛(いずみや さぶろうべえ)は、江戸時代後期から明治時代にかけて、本材木町三丁目(現在の中央区日本橋二丁目付近)で活躍した干鰯魚油・魚〆粕問屋の商家

屋号和泉屋で、本家は和泉国日根郡嘉祥寺村(現・大阪府泉南郡田尻町付近)にある江戸持ちの遠国商人とされる。文政3年(1820年)には三崎の海南神社に「江戸新肴場の商人」8名の一人として石灯籠を寄進しており、このころにはすでに新肴場の有力商人であったことがうかがえる。

近世後期になると、九十九里浜の地引網漁民から大量の干鰯や鰯〆粕を仕入れ、浦賀などを経由して江戸へ回送する一方で、名古屋四日市桑名などの肥物問屋と共同出荷・資金融通を行う広域的な魚肥流通網を構築した。文政12年(1829年)には、伊豆初島沖での難破により九十九里産鰯〆粕の荷が被害を受けた記録があり、その荷主の一人として和泉屋三郎兵衛店が挙げられている。

天保年間の大火では神田佐久間町の干鰯問屋とともに類焼し、名古屋の肥物問屋から見舞金がおくられたことが知られる。

嘉永4年(1851年)に江戸諸問屋が再興された際の名前帳では、新肴場の「鮮魚干肴問屋」として「本材木町三丁目 利兵衛地借 和泉屋三郎兵衛」の名が見え、幕末期にもなお有力な干鰯問屋として存続していたことがうかがえる[1]

また本材木町三丁目の干鰯問屋和泉屋三郎兵衛と藍玉問屋藍屋與吉郎の店が、この界隈でも屈指の素封家として知られていたことが記されており、慶応2年(1866年)に発生した飢民救済のための出金においても、両家が他の商人より多額の金を拠出している例が紹介されている[2]

明治期に入ると、和泉屋の家は数寄者として知られた奥三郎兵衛(号・蘭田)を出したのち家勢が衰えたと伝えられるが[2]、一方で維新後も深川において干鰯や米を扱う富商として活動していたことが地方史資料からうかがえる。

江戸初期から京橋川と日本橋川の中間に設けられていた中橋の堀割が、正保年間に東半分、ついで安永年間に西半分と段階的に埋め立てられた際、その西半分の埋め立てを請け負ったのが和泉屋三郎兵衛であったとされる。維新後、この請負地は京橋区に編入され、屋号に因んで「和泉町」と命名された[3]。和泉町はのちに中橋泉町を経て、現在の中央区京橋一丁目の一部となっている。

登場作品

脚注

参考文献

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