和田巌 From Wikipedia, the free encyclopedia 和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日[1] - 1923年〈大正12年〉2月14日[2])は日本の社会運動家、農民運動家。早稲田大学の学生運動団体であった民人同盟会および建設者同盟の中心人物。 青森県上北郡三本木村(現在の十和田市)出身[3]。父・足也が畜産技師として岐阜県庁に赴任した関係で、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)に進み、柔道部にて平野力三や三宅正一と知り合う[4]。旧制中学時代の和田は、トゥルゲーネフやトルストイを好んで読んでいたという[4]。その後、早稲田大学に進学する。 1919年(大正8年)2月、早稲田大学の学生を中心とした社会運動団体・民人同盟会の創立に参加する。しかし、まもなく中心メンバーの高津正道と和田の間で路線対立が生じる。その背景としては、高津らがこの頃急速に左傾化して学外の社会主義グループとの提携を重視したのに対し、和田らは穏健な組合社会主義を志向していたことがあげられる。また、和田は自身と親しい北沢新次郎を民人同盟会の顧問にするよう望んだが、すでに高橋清吾が顧問となっていたことから受け入れられなかった[5][6][7]。 同年10月頃、和田は稲村隆一・浅沼稲次郎・三宅正一らととも民人同盟会を脱退し、新たに建設者同盟を創立する。顧問には北沢新次郎を迎える[8][9]。 1920年12月、建設者同盟を代表して、日本社会主義同盟の発起人となる[10]。 1922年3月、早稲田大学を卒業。同年11月、鈴木文治を会長とする日農関東同盟の創立に、建設者同盟の稲村・浅沼・三宅・平野力三・川俣清音らとともに参加し、農民運動家の道を選ぶ[11]。しかし、藤田農場争議に参加して帰京した後、腸チフスにかかり、1923年2月14日死去[2]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 青森県民生労働部労政課 1979, p. 362. 1 2 建設者同盟史刊行委員会 1979, pp. 188–189. ↑ 小野 & 尾崎 1980, p. 98. 1 2 三宅 1976, pp. 32–33. ↑ 建設者同盟史刊行委員会 1979, pp. 33–38. ↑ 早稲田大学百五十年史編纂委員会 2022, pp. 881–882. ↑ 青森県民生労働部労政課 1969, p. 363. ↑ 建設者同盟史刊行委員会 1979, pp. 39–41. ↑ 早稲田大学百五十年史編纂委員会 2022, pp. 884–885. ↑ 建設者同盟史刊行委員会 1979, p. 106. ↑ 建設者同盟史刊行委員会 1979, pp. 121. 参考文献 青森県民生労働部労政課 編『青森県労働運動史 第1巻』青森県民生労働部労政課、1969年。 小野久三; 尾崎竹四郎『青森県政治史 3』東奥日報社事業局出版部、1980年。 三宅正一『幾山河を越えて : からだで書いた社会運動史 改訂版』恒文社、1976年。 建設者同盟史刊行委員会『早稲田大学建設者同盟の歴史:大正期のヴ・ナロード運動』日本社会党中央本部機関紙局、1979年。 早稲田大学百五十年史編纂委員会 編『早稲田大学百五十年史 第一巻』早稲田大学、2022年。 Related Articles