和田新発意
南北朝時代の武将
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和田 新発意(わだ しんぼち)は、南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将。楠木氏同族和田氏出身で、弟に新兵衛尉。「新発意」は通称で、諱(実名)は不詳だが、活躍期が交代する和田 正興(わだ まさおき)という北畠顕家に加勢した武将と同一人物説がある。楠木氏棟梁の楠木正行に従い、四條畷の戦い(1348年)で正行や弟と共に戦死。系図類や軍記物語『太平記』では、賢快(けんかい)・源秀(げんしゅう)・賢秀(けんしゅう)などの様々な法名で現れ、楠木正季(正成の弟)の子と伝わる。1900年頃までは墓所伝承地が歯の痛みを治す「歯神様」(はがみさま)として参拝されていた。
生涯
和田正興
南北朝の内乱が始まると、延元3年/建武5年(1338年)、南朝鎮守府大将軍の北畠顕家は青野原の戦いで室町幕府軍の土岐頼遠を破り、京都奪還のため伊勢国(三重県)経由で河内国(大阪府東部)に入った。
このとき、楠木正成の戦死直後で棟梁不在状態の楠木党も、和田正興や橋本正茂らが顕家に呼応し、3月から戦いを開始した[1]。
3月8日、和田正興(和田左兵衛尉正興)は、高木遠盛らを率いて丹下城(大阪府松阪市)を攻め、戦いは数日に及んだ(「和田文書」高木遠盛軍忠状延元三年三月日。以下、「高木遠盛軍忠状」とする)[2]。
5月22日に顕家が石津の戦いで幕府執事の高師直に討たれた後も、楠木党は戦いを続けた[1]。
閏7月22日、正興と正茂は松原城(大阪府松阪市)を攻め、この時の戦いで部下の高木遠盛が幕府の丹下氏の武将・丹下八郎太郎の子の丹下能登房を討つ武勲を挙げている(「高木遠盛軍忠状」)[3]。9月22日には同じく楠木氏同族と思われる佐備正忠が遠盛ら南朝軍を率いている(「高木遠盛軍忠状」)[3]。
この後も南朝軍は9月まで戦いを続けたが(「和田文書」)、8月11日に京都では足利尊氏が北朝の征夷大将軍に補任されたのを警戒したのか、11月ごろには守勢に入った[1]。
成島稼堂(江戸幕府正史『御実紀』副本の編集長)の『南山史』(出版は死後の1881年)や、頼支峰(『日本外史』の頼山陽の子)の『校正標註日本外史』「楠氏系譜略」(1884年)は、上記の戦いの正興を賢秀(新発意)と同一人物とする説を唱えている[4][5]。両史によると、この後のある時点で剃髪して名を変えたのではないか、という[4][5]。
なお、軍記物語『太平記』では新発意(同作での法名は源秀)は1328年前後の出生とされており(#『太平記』)、『太平記』説を採用する場合は1338年に活躍した正興同一人物説と整合しない。しかし、『太平記』は新発意と新兵衛尉の兄弟順を逆に描いている時点で、そもそも同時代史料とずれがある。
和田新発意

後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇に仕えた楠木氏棟梁の楠木正行は、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、四條畷の戦いで室町幕府方の高師直と戦い、数多くの武将と共に戦死した[6]。正行らの首は京都の六条河原に晒された(『建武三年以来記』)[6]。
この時戦死した武将のリストの多くでは、和田新発意は楠木正行・副将の楠木正時(正行の弟)に続く第3位の武将として扱われている[6]。名の表記は『園太暦』『醍醐地蔵院日記』『東金堂細々要記』『武家年代記』では「和田新発意」だが、『薩藩旧記』所収の足利直義の書状では「和田新発」となっている[6]。『阿蘇文書』所収の中院義定書状では「わたのしんほち」と平仮名表記になっている[6]。また、討死した和田が兄弟だったのは各種記録にかかれているが、前記の直義書状のみ新発の「舎弟」として「新兵衛尉」の通称を明記している[6]。
なお、「新発意」(しんぼち)とは「新しく出家した者」という意味[7]。本名・法名ではなく通称である。
和田新発意の死後は、和田正武という武将が河内和田氏の指揮を執るが、正武との関係は不詳。
大正8年(1919年)11月、「和田賢秀」として従四位を贈位された[8]。
系図類
『太平記』
軍記物語『太平記』では第26巻「住吉合戦の事」等(西源院本)に登場[11]。名前は、西源院本では「和田新発意源秀」(わだしんぼちげんしゅう)[11]、流布本も同じ[12]。同書では正平2年/貞和3年(1347年)時点で、年20歳ばかり(数え年として逆算すると生年は1329年前後)、背丈は7尺余り(約210cm以上)とされる[11]。また、第26巻「四条合戦の事」(西源院本)では和田新兵衛高家の弟とされるが、劇中では新発意・新兵衛の順で名が書かれることが多い[13](新兵衛尉の側は諸本で名前や続柄の異同が非常に多い)。『太平記』では、楠木一族の中でも武勇の誉れ高い第一の猛者として描かれており、正行に従って参戦している[11][13]。
正平2年/貞和3年(1347年)の住吉合戦で正行に散々に打ち負かされた幕府の山名時氏の軍だったが、しばらく休憩をして機を窺っていた[11]。すると、楠木党の新発意が名前を名乗ったあと、3尺余り(約90cm以上)の薙刀を小脇に挟み、小唄を歌いながらまるで何でもないかのように、馬に乗って揚々と歩いてきた[11]。そばには1丈(約3m)の槍を持った阿間了願という僧形の騎兵もいた[11]。たかが2騎、と思ったのも束の間、新発意と了願は2人であっという間に山名軍36騎を突き落とし、一筋に時氏の大将首を狙いに来た[11]。そのまま両軍の大乱闘になり、結果、時氏は撤退したと描かれている[11]。
翌年の四條畷の戦いでは、松田二郎左衛門という武将を倒すなど活躍するが、「西源院本」では鱸四郎という弓の達人に全身7箇所を射られて戦闘不能となり、最期は正行・正時の3人と共に自刃したと描かれている(西源院本で「兄」とされる新兵衛高家はもう1戦する)[13]。
一方、「流布本」の第26巻「楠正行最期の事」では、鱸四郎に射られたあと、かつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門という武将に首を取られる[14]。このとき、死んだにもかかわらず、新発意の首はかっと目を見開いたままだったという[14]。恐怖のあまり湯浅は病にかかり、新発意の怨霊によって、戦から7日後に死亡したと描写されている[14]。
歯神様
伝説

大阪府四條畷市南野4丁目15-7に「史跡 伝和田賢秀墓」が存在する。
現在ある墓所石碑には表面に「和田源秀戦死墓」と刻まれており、裏の碑文によると天保2年(1831年)9年に永田友之という人が立てたものであるという[15]。
しかし、1928年に大阪府学務部によって書かれた『大阪府史蹟名勝天然記念物』によると、その当時より少し前、地元の人たちからは和田新発意の伝・墓所としてもよりも、「歯神様」として信仰を受けていたという[15]。歯痛に悩む人たちが、近所だけではなく遠くからもお参りに来ていたとされている[15]。しかし、段々とその数も減っていき、1928年時点では歯神様信仰は失われていたという[15]。
どこから「歯神様」信仰が生まれたのかは不明だが、1928年時点での大阪府の推測によると、当時、和田新発意が湯浅某に首を刎ねられた時、首だけで湯浅の鎧を噛んだという俗伝があったため、そこから来ているのではないかという[15]。
墓所までの交通アクセス
大阪府四條畷市南野4丁目15-7。 墓所の位置:北緯34度44分7.20秒 東経135度38分31.70秒。 JR西日本片町線(学研都市線) 四条畷駅から、近鉄バス・ 京阪バス・ 四條畷市コミュニティバス 乗車、塚脇バス停下車すぐ。