唐崎彦明
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安芸国賀茂郡礒宮八幡神社唐崎清継の四男として生まれた[1]。幼名は乙之助[1]、乙七、万助、多内、金五郎、金四郎[2]、欽四郎[1]。2歳で父清継を喪い、兄唐崎信通に養育され、郷儒山中半斎に書を学んだ[1]。7,8歳で信通・半斎に句読を学び、9歳で初めて漢詩「梅霖」を作り、「送梅漠々自寥々。林下間居無友僚。独坐読書忘日永。臥聞門外水声喧。」と詠んだ[1]。10歳で郷儒塩谷道碩に書を学び、親族に医者になることを勧められるも、従わなかった[1]。
18歳で京都に留学し、松岡仲良に若林強斎流儒学を学んだ[1]。仲良が神道色を強めると、三宅尚斎の門に移り、富小路通二条に住んで宇野明霞に詩文を学んだ[1]。なおこの間、神道家である信通が思想の違いをこえて学資を援助し続けた[1]。寛保3年(1743年)江戸麹町に塾を構えた[1]。
延享元年(1744年)10月11日伊勢長島藩に教授として招かれ、延享2年(1745年)3月参勤交代に従い、延享3年(1746年)7月参政となった[1]。延享4年(1747年)6月1日信通の訃報により帰郷した[1]。
寛延3年(1750年)11月藩と対立して辞職し[3]、江戸に3年間滞在した後、帰郷した[1]。宝暦8年(1758年)4月22日45歳で病没した[1]。墓所は竹原長生寺[4]。