天明3年(1783年)2月2日に従五位下に叙爵されている。同4年(1784年)4月4日、秋月藩の黒田氏を継ぐために位記を返上し、江戸の秋月藩邸へと下った。しかし、後に黒田長舒が黒田氏を継いだため、豊熙は江戸から京都へと引き返した。秋月藩は、謝罪の意として豊熙の存命中は合力米を贈り続けた。
京都に帰った豊熙は大内小路民部と名を改め、大原重度の娘・いそ(伊楚子)を妻に迎えた。いそとの間には娘が生まれたが、病弱で縁談がなかなかまとまらなかったという。
文化11年(1814年)8月15日に43歳で没した。
豊熙の死後、いそと娘の生活は困窮を極めたため、いそは豊熙の援助(合力米)を引き続き贈ってほしいと秋月藩に懇願している。