固山宗次
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陸奥国白河(後の福島県白河市)に生まれる。兄は同じく刀工の固山宗平(こやま むねひら)。
白河藩主であった久松松平家のお抱え刀工となり松平定信に仕えたとする説もあるがこれは誤り。丸山栄一氏の研究によれば、固山家は町鍛冶で、抱え鍛冶ではなかったという。文政6年(1823年)に松平家は桑名藩へ転封となったが、宗次はしばらく白河に留まり、文政12年(1829年)頃に伊勢国桑名(後の三重県桑名市)に移ったが、仕官はならず。尾張に滞在した後、天保初年に江戸へ出た。
天保2年(1831年)から5年(1834年)までの作に「於江都」と添銘を切っており、江戸での鍛刀していたようである。加藤綱英の門をたたくが、当時綱英は乱心して引退していた。そこでその弟・長運斎綱俊に師事。切れ味鋭く美しい刀の鍛造を目指した。試刀家の伊賀乗重(犬山城主成瀬家の家臣)や山田浅右衛門らと交流があったとされる。得意としたのは備前伝と美濃伝。天保8年(1837年)2月頃までに桑名藩工に迎えられた[注釈 1]。弘化2年(1845年)に桑名臣として備前介を受領する。
幕末の頃には弟子と共に麻布永坂にある将軍家御典医・岡仁庵の邸宅に仮寓していた。明治4年(1871年)に散髪脱刀令が発布され刀工としての仕事が無くなると一門を率いて新政府の火薬庫があった目黒へ移る。そこで鉄砲鍛冶として働いたが、間もなく引退。弟子たちはそれぞれの道に進んだ。宗次は明治5年(1872年)に博覧会用の刀一振りを二十七両余りで受注[1]、翌年開催のウィーン万国博覧会に出品している[2]。
備前伝を得意とした宗次は、初期作は特に華やかな丁子乱れが多く、後期作には互の目乱れの穏やかな作風もある。他工にはない特色としては刃縁に荒沸が一切つかないこと。これは宗次の最大の長所とされる。
脚注
注釈
出典
- ↑ 福永酔剣『刀鍛冶の生活 (生活史叢書;16)』雄山閣出版、1969年、78頁。NDLJP:12174214/59。
- ↑ 白崎秀雄『千代鶴是秀』講談社、1978年7月、87頁。NDLJP:12424759/47。
- ↑ 友野直二 著、松田素風 編『発動機と寝起き六十年:友野直二の記録』発動機と寝起き六十年刊行会、1962年、12頁。NDLJP:2496745/16。
参考文献
- 得能一男『刀工大鑑』(光芸出版)、1977年 ISBN 4-7694-0062-4
- 佐藤寒山『新・日本名刀100選』(秋田書店)、1990年 ISBN 4-253-00401-6
- 小島つとむ「固山宗次の桑名藩仕官の時期」『刀剣美術』540号
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