国鉄A3形蒸気機関車
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構造
運転・経歴
1872年、日本に来着した前期形2両は、製造番号の順に「6, 7」と付番された。鉄道開業後は、京浜間で使用され、使用成績はシャープ・スチュアート(後の160形)に次いで良好であった。[1]
1876年(明治9年)には、東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、6は「5」に改番されている(7は不変)。
1885年(明治18年)ごろ日本鉄道に貸し渡されたが、東海道線の工事が始まると、工事に使用するため新橋工場で完全修理がなされ、7は1886年(明治19年)暮れに馬入川(相模川)に、5は1887年初めに沼津に送られた。東海道線の全通後は、保線・工事用として京浜間に戻っている。
1894年(明治27年)には「C形」に類別され、1898年(明治31年)鉄道作業局では「A3形」に類別された。
1895年(明治28年)から1897年(明治30年)頃には、煙突を少し太くし、運転台の前部風除けの窓を丸型にして後部にも風除けを設け、安全弁をラムズボトム式に改める改造が実施されている。[1] 前述のように1900年から1901年にかけて、本形式2両は除籍され、台湾総督府鉄道に譲渡されたが、台湾には「7」が到着したのみで、「5」は1901年10月、輸送途中の鶴彦丸海難事故で失われた。[2] 。
台湾到着後、形式は「A2-4-0T形」(Avonside製の軸配置2-4-0(1-B)のタンク機関車の意。番号はそのまま)に改められ南部の高雄 - 台南間で使われたようである。1906年(明治39年)には「9」に改称、形式は後年、E9形に改められ、1925年度(大正14年度)に廃車となった。[3]
