土井利忠
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土井利忠 | |
| 時代 | 江戸時代後期 |
| 生誕 | 文化8年4月3日(1811年5月24日) |
| 死没 | 明治元年12月3日(1869年1月15日) |
| 改名 | 錦橘(幼名)、利忠 |
| 別名 | 欽斉(号) |
| 墓所 | 福井県大野市錦町の善導寺 |
| 官位 | 従五位下能登守、贈従三位 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉、家慶、家定、家茂 |
| 藩 | 越前大野藩主 |
| 氏族 | 土井氏 |
| 父母 |
土井利義、岡部長備娘栄香院 土井利器 |
| 兄弟 |
利忠、堀田利金、江島利豊、 土井利器正室、多羅尾純門室ら4男7女 |
| 妻 | 戸沢正胤娘お晋、戸田氏庸娘 |
| 子 | 利恒ら |
土井 利忠(どい としただ)は、江戸時代後期の大名。越前国大野藩7代藩主。号は欽斉。官位は従五位下・能登守。贈従三位。利房系土井家7代。
藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな実績を挙げ、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君といわれる。
藩政改革
利忠が始めて大野へ入部したのは文政12年(1829年)7月9日であった。幕末はいずれの藩も同じであったが、大野藩も莫大な財政赤字を抱え、減知減給が恒常的に行われていた。利忠は早速翌年に「寅年御国産之御仕法」と後年呼ばれる倹約及び地場産品奨励の命令を出し、現在で言う保護貿易政策をとった。続いて天保3年(1832年)5月に領内の面谷(おもだに)鉱山を藩直営に切り替えた。ただし、これらの政策はすぐには効果が発揮されず、藩財政のみならず藩士一般の窮迫も改善のめどが立たなかった。
天保13年(1842年)4月27日、利忠は自筆をもって「更始の令」を発布した。その内容は、
- 藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい、家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない。
というもので、城内書院に集められてこの令の読み上げを聞いた家臣一同は感涙に咽んだという。その後、利忠は国許にいるときも江戸に参勤しているときも、自筆の命令により改革を進めていくこととなる。
続いて利忠は人材の登用を行い、内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟を抜擢した。兄の良休は勝手方一向奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなる。財政再建で威力を発揮したのは、直営となった面谷鉱山であった。年間10万貫の銅を産出したといわれている。
藩校明倫館・洋学館
軍制改革
大野屋
北蝦夷地開拓と大野丸
安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行った。内山隆佐は利忠以下藩論をまとめて応募し、自ら探検調査団を率いて渡島半島を調査した。蝦夷地開拓は結局大野藩へは下命されなかったが、大野藩は諦めずに今度は北蝦夷地(樺太)開拓の許可を求めた。安政5年(1858年)、幕府は利忠に北蝦夷地西浦の警固と開拓を命じた。大野藩準領ウショロ場所である。これには船が必要ということで、建造したのが藩船大野丸であった。大野丸は長さ23m、幅7m、2本マストの帆船で、この年7月に進水し、敦賀湾を拠点として北方貿易及び警備兵運送に従事した。
ただし、北蝦夷地開拓は北緯50度まで行ったものの、予想に反して利益が出ず、開拓は行き詰まった。幕府は利忠に対し、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩の江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助した。幕府は北蝦夷地の警固をそれほど重視していたのである。しかし、元治元年(1864年)内山隆佐の死と大野丸の遭難沈没が重なって開拓は頓挫し、明治元年(1868年)に大野藩は明治新政府に樺太を返上し、開拓に終止符を打った。
隠居・没
文久2年(1862年)、利忠は病気を理由に隠居し、15歳の三男・捨次郎が利恒と改名して家督を相続した。藩政改革は軌道に乗り、借金まみれだった財政は黒字化を達成していた。藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備され、樺太まで準藩領になった。何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気が蘇ったことが最大の成果といえる。天保13年の「更始の令」以来、大野藩自体をもう一度やり直す(更に始める)、という気概で取り組んできた改革は見事に実を結んだ。
利忠は明治元年(1868年)に没した。享年58。
明治15年(1882年)、旧藩士たちの手により、大野城ふもとに利忠を祭った神社「柳廼社(やなぎのやしろ)」が建立された。