土地の日
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土地の日(とちのひ、アラビア語: يَوْم اَلْأَرْض)は、毎年3月30日に行われるパレスチナの記念日である。
1976年イスラエル政府による土地の収奪に抗議する人が殺害されたことにちなんで、イスラエル国籍のパレスチナ人を始め、世界中に離散したパレスチナ人やその支持者らが追悼、抗議する日である。
1976年、イスラエル政府は肥沃な土壌をもち農業に適しているガリラヤ地域の土地を収用する計画を発表。この計画は「ガリラヤのユダヤ化」を目指す政府の戦略の一環であり、パレスチナ人(イスラエル国籍のアラブ人)の所有地も含まれていた[1]。
これに反対した、パレスチナ人のコミュニティはゼネラル・ストライキを宣言し、ガリラヤからネゲヴまでの各地でデモ行進が行われた[2][3]。
それに対し、イスラエル国防軍と警察は非武装のパレスチナ人デモ参加者6人(男性3名、女性3名)を殺害[4]。さらに約100人が負傷し、数百人が逮捕された[3][5][5][6][7]。
1976年の土地の日は、イスラエル建国後にアラブ人がパレスチナ民族としての集団的な意思のもとにイスラエルの政策に対して組織的に抗議した最初の出来事であった[2]。
そのため、シオニズムの入植植民地によって奪われた土地をめぐる闘争と、パレスチナ系市民とイスラエル国家および政治体制との関係における大きな転換点として位置づけられている[8]。以来、パレスチナの政治において重要な記念日となり、イスラエル国籍のパレスチナ人だけでなく、世界中のパレスチナ人や支持者らがこの日に抗議を行なっている[9]。
抗議のきっかけとなったイスラエル政府による土地の収用
イスラエル政府は肥沃な土壌をもち農業に適しているガリラヤ地域の土地を、国家で収用する計画を発表した。対象はサフニンとアッラバのアラブ人の居住エリアの間にある約20 km2の土地で、そのうち6.3 km2はアラブ人の所有地であった[1]。1976年3月11日、政府はこの収用計画を公示した[10]。
イフタチェルは、北ガリラヤでの土地収用とユダヤ人入植地の拡大は「ガリラヤのユダヤ化」を目指す政府の長期的な戦略の一環であり、この戦略自体が「パレスチナ人の抵抗」の力を削ぐ目的を持っていると指摘。同時に、パレスチナ人らの強い反感を誘発し、土地の日の事件に至ったと書いている[11]。
パレスチナ解放民主戦線(DFLP)のナーイフ・ハワトメは、収用された土地は「1975年のガリラヤ開発計画を実施するためにユダヤ人の産業村を8つ建設するために使われる予定であった。この計画を推進するにあたり、農業省はガリラヤの人口構成を変えてユダヤ人を多数派にすることが主要な目的であると公然と宣言した」と述べている[4][12]。
エルサレム・ポストのオーリー・ヘルパーンは、土地は安全保障上の理由で政府に収用され、その後、軍の訓練施設と新しいユダヤ人入植地の建設に使われたと書いている[4]。
イファト・ホルツマン=ガジットは、1976年の発表を1975年に策定されたより大きな計画の枠組みの中に位置づけている。アラブ人の私有地約1.9 km2がユダヤ人の町カルミエルの拡張のために収用される予定であった。
さらにこの計画は、1977年から1981年の間に、ミツピーム(見張り所)として新しいユダヤ人入植地を50箇所設立することを構想していた。各入植地は20家族未満で構成され、中央ガリラヤのアラブ人の村の間に配置される予定で、約20 km2(内30%をアラブ人から、15%をユダヤ人から収用し、残りは国有地)を割り当てる計画であった[13]。デイヴィッド・マクドウォールは、1970年代半ばのガリラヤにおける土地接収の再開とヨルダン川西岸地区における土地収用の加速が、土地の日のデモと西岸地区で同時期に行われていたデモの両方の直接のきっかけであったとしている。マクドウォールは「土地の問題ほど、二つのパレスチナ人コミュニティを政治的に結びつけるものはない」と書いている[14]。
1976年の抗議
1976年、イスラエル政府の土地収用の決定に伴い、アラブ・ユダヤ共同の新共産党であったラカハ党のアラブ人指導者で、ナザレ市長でもあったタウフィーク・ジアードは、3月30日に土地収用に抗議するゼネストと抗議行動の日を設けるよう呼びかけた[15]。
3月18日、労働党所属のアラブ人地方議会議長たちがシェファ=アムルに集まり、この抗議の日を支持しないことを決議した。この決定を不満を持った市民らは、市庁舎の前でデモを行ったが、催涙ガスで鎮圧された[16]。
イスラエル政府はすべてのデモを違法と宣言し、サフニン、アッラバ、デイル・ハンナ、トゥラン、タムラ、カブルの各村には、3月29日午後5時から夜間外出禁止令が発令した[17]。また、生徒の参加を促した教師などの「扇動者」を解雇すると脅した[17]。しかし、多くの教師が生徒を教室から連れ出し、北部のガリラヤから南部のネゲヴまでイスラエル各地のパレスチナ人の町では行われたゼネストとデモ行進が行われた[2][4][17]。
ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、およびレバノンのパレスチナ難民キャンプの多くでも、ほぼ同時に連帯ストライキが行われた[18]。

これほどの大規模な抗議は前例のないものであった[17]。国際ユダヤ平和連合によると、3月30日は「ヘリコプターを持った部隊や陸軍部隊を含む約4,000人の警察官がガリラヤに展開された」[19]。
当日、非武装のデモ参加者4人がイスラエル軍に射殺され、さらに2人が警察に射殺され、内3名は女性であった[4][17]。講義に参加した約100人のパレスチナ人が負傷し、数百人が逮捕された[5][6]。
バルーフ・キンマーリングとジョエル・S・ミグダルは、土地の日は、1956年のカフル・カシムの虐殺とは異なり、イスラエル国内のパレスチナ人が「失っていた大胆な自信と政治意識を示した。今回アラブ系市民は受動的で従順ではなかった。むしろ彼らは国家レベルで政治運動を考え企画し、警察の暴力に自らの暴力で応えた」と書いている[20]。
背景

イスラエルが建国される前のパレスチナに住む人々の多くは農業に従事者であった。当時の人口の約4分の3が何かしらの形で土地から生計を立てていた[21][22][23][24]。パレスチナ人(アラブ系パレスチナ人)にとって、土地は共同体としてのアイデンティティであり、社会的に重要な役割を果たしていた[21][25]。
シオニズム運動が加熱し、1948年には第一次中東戦争とナクバと呼ばれるパレスチナ人の故郷からの追放と避難が行われた。多くのパレスチナ人が紛争から避難している最中に建国されたイスラエルは、多くの土地を領地として発表。1950年には、イスラエル政府はシオニズム運動を進め、ユダヤ人の移民と難民の受け入れを促進するため帰還法を制定した。
同年3月の「不在者財産法」は、「不在者」の財産の所有権を政府が任命した管理人に移転するものであったが、イスラエルに住むパレスチナ人(アラブ系市民)は「国内にいながら法律上『不在者』に分類され」、所有している土地が奪われた[26]。
イスラエル領地に住むパレスチナ人口120万人のうち、ナクバによって国内避難民、すなわち「在住不在者」として扱われた人の数は、推計で約200,000人、アラブ系市民全体の約17%にあたる[26]。サルマン・アブ・シッタは、1948年から2003年の間にイスラエルのパレスチナ系市民(在住不在者とそれ以外を含む)から1000 km2以上の土地が収用されたと推計している[27]。
オレン・イフタチェルによると、1970年代半ば以前は、イスラエル国内のアラブ人が、イスラエル国家の政策や慣行への大きな抗議を行うことはまれであった。その要因として、新国家の軍政、貧困、孤立、分断、周縁化された立場などが挙げられている[28]。シャニー・ペイズによると、イスラエル軍政下(1948年–1966年)で行われた土地収用や制限に対する抗議は、移動の自由、表現の自由、集会の自由の制限のために散発的で限られたものであった[29]。
約10年間活動したアル・アルド(アラビア語で「土地」の意)という政治運動はあったが、1964年には非合法化された。それ以外に目立った反政府行動は、共産党が毎年行うメーデーの抗議活動であった[28]。
影響

土地の日は、パレスチナ人がイスラエル政治において無視できない存在となる契機ともなった。イスラエル国内のパレスチナ市民社会は互いの連携を強め、政府の政策に対する抗議がより頻繁に行われるようになった。焦点は三つの主要な問題に置かれた。土地と都市計画の政策、社会経済的条件、そしてパレスチナの民族的権利である[28]。
しかし、抗議行動は1975年の土地収用計画を止めるには至らなかった。イスラエルによって設立された見張り所の数は1981年に26、1988年に52に達した。これらの見張り所と「開発都市」であるアッパー・ナザレ、マアロット、ミグダル・ハエメク、カルミエルは、ガリラヤの人口構成を大きく変えた。イスラエル建国後の頃にはアラブ人が92%占めていたガリラヤの人口は、1994年には72%に減少し、ユダヤ人が残りの28%を占めるようになった[13]。
