土屋光春
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嘉永元年(1848年)に岡崎藩士・渡利伝左衛門の四男として生まれる。14歳で岡崎藩士・土屋甚助の養子となり、1870年(明治3年)7月、家督を相続し、本多忠直に支え、文学教授読兼司書一番銃卒分隊長となった。同年11月、藩から3名選抜された中の一人として大阪陸軍兵学校に入る[2]。1872年(明治5年)、陸軍少尉任官。その後、佐賀の乱、西南戦争を経て日清戦争には大本営参謀として従軍した。
第27旅団長、台湾守備混成第1旅団長、近衛歩兵第1旅団長を歴任し、1902年(明治35年)に陸軍中将に進む。日露戦争に際しては、乃木希典大将率いる第3軍隷下の第11師団長として、旅順攻囲戦に参加。東鶏冠山に師団を率いて攻撃中にロシア軍銃撃により頭部に銃創を受け内地後送。治癒後、1905年(明治38年)に新設の第14師団長として再度満州に渡る。1906年(明治39年)7月、再度第11師団長に親補され[3]、1907年(明治40年)9月に戦功により男爵となる。1908年(明治41年)12月21日、第4師団長となる。1910年(明治43年)8月26日、陸軍大将に進むと同時に後備役編入[4]。1915年(大正4年)4月1日に退役した[5]。
退役後は郷里に帰り、三河郷友会会長を務めながら愛知県岡崎市明大寺町向山の地で余生を送った[6]。
1920年(大正9年)11月17日、病に倒れ死去。72歳没。岡崎市の龍海院に葬られる。1964年(昭和39年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[7]。
