土岐持頼
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応永24年(1417年)に父より家督を譲られて伊勢守護に任じられたが、間もなく将軍・足利義持の弟の義嗣による将軍打倒計画が発覚。康政・持頼も義嗣に関与したとの疑いを持たれ、伊勢守護職を取り上げられてしまう。さらに応永31年(1424年)、今度は上皇の女官と密通したとの疑いにより逐電した。しかし、後に罪を許されて伊勢守護に再任されている。持頼の復帰には三宝院満済らの後押しがあったとされる。
応永35年(1428年)、義持が死去。これに乗じて伊勢国司の北畠満雅が南朝の後胤・小倉宮聖承を擁して乱を起こす。正長元年(1428年)末、新将軍・足利義教に命じられて満雅らを討ち取った[2]。しかし、その後も伊勢国内では北畠氏による反乱が度々起こっており、持頼はその対応に腐心している。

持頼はその後も将軍義教の側に仕えたが、徐々に疎んじられ対立するようになり、永享12年(1440年)に義教は持頼と一色義貫に大和の越智氏討伐を下命した。持頼は大和に出陣しているところを、義教の密命を受けた長野満藤や草生大和・中尾民部・雲林院らその一族などに三輪にて攻撃を受け包囲されて、又従兄弟の島田満清(島田満貞の孫)らとともに自害して果てた。
土岐世保家は子の政康が継いだ。政康は応仁の乱に際して東軍に属し、幕府から一時的に伊勢守護に任じられたものの、一色氏や北畠氏との合戦に敗れ没落していった。