慶長7年(1602年)誕生。土岐一圭の子。童名は三三郎。六条門跡本願寺[7]に嫁していた父・一圭の従兄妹の縁で、幼少より又従兄弟にあたる六条門跡東承殿と一緒に育った。成長して六左衛門と名乗り、やはり父一圭の従兄弟にあたる頼泰(縫殿助)と持益(市正)を頼って武州へ下った。
徳川頼宣室で加藤清正の息女瑤林院(八十姫)の上臈となっていた妹つまの方の進言により、承応3年(1654年)に徳川頼宣に召し出され、寄合衆となる。知行は250石。義虎と頼宣は同い年であった。頼宣隠居(寛文7年(1667年)後は、二代目紀州藩主徳川光貞に仕え、天和元年(1681年)、命により80歳にて隠居薙髪し、宗見と名乗った。その後、三代目紀州藩主徳川綱教に仕え、「御城内、駕・頭巾、御免。」[8]の厚遇を受けていた。
徳川紀州藩主三代に仕え、宝永4年(1707年)10月26日、106歳にて死去。紀州名草郡の幡降寺に葬る。