坂上尊忠
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坂上氏は尊忠の父・肥後守の代からの北田原城主という[2][注釈 2]。現在の奈良県生駒市北田原町[9]にあった北田原城は、大和国と河内国の国境に位置していた[2]。北田原城は田原城(大阪府四條畷市)や津田城(枚方市)と同様、飯盛山城(四條畷市・大東市)の外郭の1つだった可能性が指摘されており、坂上氏も三好長慶ら河内の勢力の傘下にあった可能性があるとされる[9]。永禄10年(1567年)には『多聞院日記』に「田原之坂上」の名が現れ、三好三人衆方から松永久秀方に寝返り生駒谷で挙兵している[10][11][1]。
「鷹山氏系図」によると、尊忠は田原の東隣に位置する鷹山荘(生駒市高山町)の鷹山城主・鷹山弘頼の娘(母は大和国狭川城主・上野の娘)を妻として、娘を儲けた[2]。娘は、鷹山氏と血縁関係にある窪庄藤宗の二男・鷹山頼一に嫁ぎ、天正7年(1579年)と8年(1580年)に弘頼の男子の頼貞・頼盛が相次ぎ戦死したことから、頼一が鷹山氏の家督を継いだ[2]。頼一は天正13年(1585年)の筒井定次の転封に従って伊賀へと移ったが、慶長7年(1602年)に子の頼茂が鷹山で誕生している[2]。
天正13年(1585年)、尊忠は北田原城を離れて牢人となり、慶長19年(1614年)に始まる大坂の役に豊臣方として参戦した[2]。大坂城に籠城する尊忠は、当時12、3歳の孫の頼茂を呼んで御馬揃えに参加させ、豊臣秀頼にまみえさせたという[2]。
尊忠は秀頼の乳兄弟である結城権佐[注釈 3]の先陣を引き受け、慶長20年(1615年)5月5日、道明寺口にて胴を鉄砲で撃たれ、翌6日の朝、大坂城内で死去した[2]。法名は月山宗清[2]。また、5月6日には娘婿である頼一の兄の窪庄宗重や小夫氏、狭川氏、和田氏も道明寺口で討死したという[2]。