坂戸城の戦い
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発端は、天文15年(1546年)2月に遡る。黒滝城主黒田秀忠が2度目の反旗を翻した時、長尾景虎が病弱で総統力がなかった兄の長尾晴景に代わり、黒田秀忠討伐を行ったことにより、景虎(謙信)の武名が高まったことによる。それに比べ、守護代である兄の晴景の評判は落ちるばかりだった。
そんな時、景虎の叔父高梨政頼(中野小館城主)や中条藤資、母の虎御前の実家である(栖吉)の長尾景信らが、景虎(謙信)を守護代に就任させようと動き始める。
それに対抗したのが、晴景の義弟だった政景だった。政景は、晴景方につき、蒲原郡奥山荘黒川城(胎内市)の黒川清実らの援助を受け、景虎打倒を決意した。しかし、景虎と、晴景の2人の兄弟争いは、越後国守護である上杉定実が和議の調停をかって出たため、終息。天文17年(1548年)12月30日、景虎と晴景は「父子の義」を結び、晴景は隠居した。代わって19歳の景虎が新しい守護代、春日山城城主となり、家督を相続した。
なお、近年になって黒田秀忠が天文16年(1547年)7月時点で健在であったことを示す史料(高野山清浄心院『越後過去名簿』)が発見されたことで、秀忠が反旗を翻したのは景虎と晴景の対立の時であるとする説が有力になっている。その説を採用すると、景虎と敵対した黒田秀忠は晴景方であったと考えられ、長尾政景と連携していた可能性も浮上することになる[1][2][3]。少なくても、天文18年(1549年)6月の時点で政景と景虎が対立状態にあることが確認できるが、この頃には北条氏康に攻められた関東管領の上杉憲政からの救援要請が定実・景虎にあったらしく、政景との衝突は回避されたと考えられている(ただし、定実の病気によって関東出兵は行われなかった)[4]。