垣屋光成 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 文禄元年9月23日(1592年4月5日)改名 小治郎または新九郎(幼名)[1]→光成→宗歓[1]または宗菅[2] 凡例垣屋 光成時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 文禄元年9月23日(1592年4月5日)改名 小治郎または新九郎(幼名)[1]→光成→宗歓[1]または宗菅[2]別名 平右衛門(通称)[2]戒名 大光院殿悦岩宗歓大居士[1]官位 播磨守主君 山名致豊→誠豊→祐豊→豊臣秀吉氏族 垣屋氏父母 父:垣屋続成または垣屋続貫[3]兄弟 光成、信貞、峯信子 恒総テンプレートを表示 垣屋 光成(かきや みつなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。但馬国宵田城主、後に鶴ヶ峰城主。 垣屋氏について 垣屋氏は代々但馬国気多郡楽々前城を本拠とする国人衆。光成の曾祖父である隆国は子の満成らに分知し、大岡山の山嶺を半周する一帯に勢力を広げた[1]。また、光成の父・続成は山名致豊の重臣として活躍し、文亀2年(1502年)に致豊が但馬守護になると、続成は守護代として実権を握った[4]。 山名家臣時代 永正5年(1508年)、足利義稙が山名致豊に御内書を与えて取り立てることを願い出たことに対して光成が謝礼を述べていることから、光成が山名氏の実質的な主導権を握っていたものと思われる[1]。 元亀元年(1570年)、田結庄是義と対立した続成が是義の奇襲を受けて自害に追い込まれているが、天正3年(1575年)に一族の垣屋豊続が是義の愛宕山城を攻撃したのに呼応し、是義を降した[5]。 同年、羽柴秀吉が中国攻めに乗り出すと、太田垣輝信・八木豊信・垣屋豊続らは山名祐豊を擁立して吉川元春と同盟を結ぶが(芸但和睦)、光成はこれに消極的であり、吉川氏と連携を深めようとする豊続と対立したという[6]。 羽柴家臣時代 天正8年(1580年)、羽柴秀長が但馬平定に乗り出すと光成はいち早く羽柴軍の軍門に降り、鳥取城攻めの主力部隊として活躍、その後、宮部継潤の与力となり因幡浦留に1万石を領した[6]。 文禄元年(1592年)2月23日、死去。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 山本 & 小和田 1981, p. 135. 1 2 高柳 & 松平 1981, p. 74. ↑ 宿南 2002, p. 147. ↑ 森岡 2013, p. 173. ↑ 山本 & 小和田 1981, p. 135-136. 1 2 山本 & 小和田 1981, p. 136. 参考文献 山本大; 小和田哲男 編『戦国大名家家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年、135-136頁。ISBN 978-4-404-01076-6。 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、74頁。 宿南保『但馬の中世史 (城跡と史料で語る)』のじぎく文庫、2002年、3頁。ISBN 978-4-343-00165-8。 Related Articles