埴原一亟
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1907年(明治40年)10月5日、山梨県北巨摩群白州町に生まれる[4]。同町の出身者には山口素堂がいる[5]。生家は宿場本陣の家柄であるが、1912年(大正元年)春、一家そろって上野車坂町に移る[2]。また、大正期に下級官吏であった埴原の父は49歳でこの世を去っている(『文芸復興』誌上に「沈香も焚かず」の題で小説化している)[6]。
早稲田大学露文科を中退後、銀座松屋に勤めながら執筆するが、左翼的との理由で解雇。1932年(昭和7年)、長編『蒼白きインテリ』を刊行(後、発禁[7])[8][9]。1940年(昭和15年)『早稲田文学』掲載の小説「店員」が第12回芥川賞候補になり、第13回では「下職人」、第16回では「翌檜」が候補に挙がる[4]。
1945年(昭和20年)6月、一家で樺太に疎開。終戦後、1948年(昭和23年)まで同地でソ連軍指導のもと、日本住民向け新聞『新生活』の編集にあたる[10]。樺太からの引き上げ後は東京都大田区で古書店と大田区初の私立保育園「青空保育園」(後に「子供の家保育園」に改名)を設立。事務のかたわら執筆活動を行う[11]。同年10月『新日本文学会』に参加、日本共産党に入党。
1968年(昭和43年)9月29日『埴原一亟創作集』出版記念会開催。案内状には壷井繁治、藤森成吉、上野壮夫、久保田正文、林富士馬、大庭さち子らの名前が並ぶ[5]。1969年(昭和44年)頃から痛風が持病となり、1977年(昭和52年)には最初の胃手術を行なっている。
1979年(昭和54年)没。72歳。