堀越愛国
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将軍家御台所小間遣・平三郎の子として生まれ、幕府より十五人扶持および金十両を給された幕臣であった。1914年時点で生存し、80歳と記されており、そこから生年は天保5年(1834年)と推定されている。江戸牛込原町二丁目裏町袋町に居住し、幕府作事方定普請同心・村井鏆蔵の屋敷地内に住んでいた[2]。
文久年間には、幕府の官立教育機関である開成所の教官として英学教育に携わった。慶應3年(1867年)8月16日には、同所において英学教授方出役を命じられ、英語教育および翻訳実務を担当した[2]。
英和辞書編纂史においても重要な役割を果たしている。文久2年(1862年)に刊行された堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』の再版に関与し、さらに慶應2年(1866年)刊行の『改正増補英和対訳袖珍辞書』では、訂正および増補作業を担当した。改訂は博物学関係語を中心とした最小限の修正にとどめられたが、実用性の向上に大きく寄与し、日本最初期の英和辞書の完成度を高めたと評価されている[3][4]。
幕末期には英字新聞翻訳事業にも参加した。文久3年(1863年)、ポルトガル人 Da Roza が発行した The Japan Commercial News を底本とし、堀越は、加藤弘之・箕作麟祥・堀達之助・柳川春三らと洋学者が組織した「会訳社」によって刊行された横浜新聞の翻訳発行に関与し、この事業は慶應元年(1865年)頃まで継続された[3]。
また、若年期の榊俶は、駿府において堀越愛国のもとで英学を学んだとされる[5]。
明治維新後は新政府に出仕し、官庁文書の英訳業務などを担当した。明治4年に従六位、文部少教授となり、明治5年には正院六等出仕、のち編輯権助を務めた。さらに明治8年には正院において従六位六等出仕となっている[6]。
業績
- ウィルソン(Marcius Willson)著の『近世西史綱紀』の翻訳(保田久成との共訳)。
- 『百科全書国民統計学』の翻訳。
- 『本朝辞源』の校訂。