堀野文禄
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日本橋榑正町(江戸橋3丁目、日本橋東中通)にあり、江戸時代からの老舗の紅屋である花田屋に生まれる。坂本小学校に通っていたが中途でやめさせられ、小僧として他の商家に勤める。17歳の時に父が病気になったので、実家に帰り紅製造に従事する。「寒紅や榑正町の人通り」と俳句に詠まれるくらい繁盛したという。ところが読売新聞へ雑文を投書したのをきっかけに小説・戯作・川柳に凝るようになり、ついに1888年(明治21年)頃、同好の仲間と「自笑酔誌」を刊行し、続いて月刊雑誌「一分線香」を発行するまでになった[1]。同じ頃に顧問として落語家の三遊亭圓朝と小説家の尾崎紅葉を迎えて書肆文禄堂を構え、出版業を始め[注釈 1]、1912年(明治45年)には東光印刷合資会社を起こし代表社員となっている。晩年は講釈師の初代・悟道軒圓玉(浪上儀三郎)のもとへ通って資料の調査などを手伝い、長唄や雑俳を楽しむ毎日だった。胃がんで生涯の幕を閉じ、本郷湯島両門町の講安寺に葬られる[2]。