塚本善隆
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委員・役員ほか
- 出生から修学期
1898年、愛知県海部郡七宝村(現・あま市)で生まれた[1]。15歳の時に仏門に入った。佛教専門学校(現・佛教大学)で学び、1918年に卒業[1][2]。その後は東京に出て宗教大学(現・大正大学)研究科に進み、1920年に卒業[2]。博士課程は京都帝国大学文学部哲学科インド哲学専科で修め、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡に師事。1923年に修了し[2]、その後は京都帝国大学文学部史学科東洋史専科で学んだ。東洋史学は桑原隲蔵、羽田亨に師事し、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡の下で学び、仏教学・史学を併修した独自の学風であった。1926年に修了[1][2]。同年4月からは仏教専門学校講師を務めた。
- 仏教史学研究者として
1929年に帰国し、同年5月に東方文化学院京都研究所研究員に就いた[1][2]。1948年2月、学位論文『北魏仏教史の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得[3][2]。
- 太平洋戦争後
1949年に東方文化学院が廃止となり、京都大学に吸収合併となったことから以降は同大学文学部教授[1]。1955年4月、貝塚茂樹の後を継いで京都大学人文科学研究所の第2代所長に就任(- 1959年9月)[4][2]。1961年、同大学を定年退官[2]。
1961年5月、京都国立博物館館長に就いた(- 1972年4月)[2]。1973年、華頂短期大学学長に就任[1][2]。1974年、京都大学名誉教授となった[1][2]。在任中には、九州大学、神戸大学、佛教大学、名古屋大学、大正大学大学院、東北大学でも講師を務めた。学界では、1977年1月に日本学士院会員に選出された[5]。
宗門においては、1942年10月から1974年10月まで、嵯峨清凉寺住職を務めた[2]。在職中の1954年、本尊の釈迦如来像の胎内物調査を行い、五臓六腑の模造品をはじめとした多数の遺物が発見されて注目された[2]。
1980年に京都市で死去。