塩川広平 From Wikipedia, the free encyclopedia 塩川 広平(しおかわ こうへい、1842年(天保13年)- 1890年(明治23年)6月2日)は、幕末の尊王攘夷運動家、勤王家、志士、神官。明治時代の官吏。号は潤屋。 武蔵国賀美郡元阿保村(現在の埼玉県神川町)の元阿保稲荷神社の神主家に生まれる。初名は瀬平。松原玄谷門下として学問を修め、17歳で江戸に出て幕臣の小林萬之助や安積艮斎、伊藤代三郎などから、軍学などを学び、市ヶ谷三番町に私塾を開いた。また同じ幕臣の大橋源兵衛に仕えた。嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが来航したことにより主家を辞し、尊皇攘夷活動に奔走した。京都に行き、尊攘運動家と交わり、岩倉具視に仕え、その内命をうけて幕府の動静を探った。また征夷大将軍の徳川慶喜に恭順を勧めるなどした。戊辰戦争の際も忙しく奔走していたが、信濃の下諏訪に孤立していた赤報隊の相楽総三などを憂慮したという[1]。 明治維新後は、一転して旧幕府擁護の立場を取ったという。東北地方の情勢を調査し、親兵の編制を建言するなどした。1869年に横井小楠が暗殺されると、関係を疑われ禁固刑となった。出獄後は教部省や司法省の栃木裁判所やや静岡裁判所、沼津裁判所長などを務め、1889年に非職となった[2]。明治23年6月2日死去。享年49[3]墓所は青山霊園の1-ロ-2-6に所在。また死後の1912年に従五位を贈られたのを機に、遺徳を慕う村民により、元阿保の大観堂墓地に墓石が建立された[4]。 脚注 ↑ 幕末関連史跡補完計画 神川町 ↑ 史跡訪問の日々 ↑ コトバンク 塩川広平 ↑ 埼玉県神川町 塩川広平生地並びに墓(町指定史跡) Related Articles