塩谷温
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東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる[1]。号は節山[1]。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業[1]。優等賞を下賜された[1]。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる[2]。
1905年学習院教授[1]、1906年東京帝国大学助教授[1]。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う[1]。1912年に帰国し[1]、1920年元曲に関する研究を提出して文学博士号を授与され[1]、同年東京帝国大学教授となる[1]。
1929年に御講書始を務め[1]、1931年には皇子浴湯の儀で読書役控を務めた[1]。1939年、東京帝国大学を定年退官、名誉教授[1]。同年、正三位に叙される[1]。
1948年に長年連れ添った妻・せつを亡くし、翌年、36歳下の元芸者・菊乃と17年ぶりに再会し、1950年から小田原で同棲を始めて周囲を驚かせたが、翌年菊乃が入水死し新聞沙汰となり、塩谷は週刊朝日に手記「宿命」を発表した[3][4]。
研究内容・業績
家族・親族
漢学者の家系に産まれ、大伯父は塩谷宕陰、父塩谷青山も漢学者であった[1]。弟の山井良は山井家に婿入りし、その子は東京大学名誉教授山井湧である。娘は漢文学者の辛島驍に嫁ぎ、辛島昇を儲けた。
妻の節子は佐原伊能氏の娘で、1921年に結婚し、塩谷との間に二男三女を儲けたが、1948年に死去[4]。
1949年に日本橋の料亭喜楽で、越後長岡の芸者から料理屋の住み込み女中に身をやつした37歳の長谷川菊乃(晩香、1914-1951)と17年ぶりに再会し、菊乃が半玉時代に宴席で塩谷に書いてもらった「嬌羞花解語」なる色紙を持ち続けていたことに感激し、菊乃に求婚、入籍には至らなかったものの、1950年から小田原で同棲を始め、門下生を集めて漢文素読会を開くなど幸せな時間を過ごしたが、1年半後に荒久海岸を散歩中、菊乃が行方不明となり、伊東海岸で水死体で発見された[3][4][5]。遺書があった、ポケットに石が入れてあった、草履が揃えられていたなどから自殺とされたが、塩谷自身は死者への侮辱であると否定した[4][5]。なお、永井荷風は1949年の塩谷・菊乃結婚の新聞記事を見て『断腸亭日乗』に「老健羨むべし」と記した。