増田繁幸

日本の銀行家、政治家 (1826-1896) From Wikipedia, the free encyclopedia

増田 繁幸(增田、ますだ しげゆき[1] / はんこう[2]1826年7月19日文政9年6月15日[3][4][注 1])- 1896年明治29年)3月14日[5])は、幕末仙台藩士明治期の内政官僚銀行家政治家。このほか、衆議院議員貴族院勅選議員を歴任した。は歴治[3]俗名は斎、繁幸[3]

増田繁幸

経歴

武蔵国江戸で仙台藩執政・増田繁育の三男として生まれる[3][4][6]天保9年1月18日(1838年2月12日)父繁育が江戸藩邸において藩政改革のため自刃し、その後、家督・繁祉が相続した[3]文武に励み、嘉永3年(1850年)諸国を巡り各地の志士と交わった[4][7]万延元年(1860年)兄・繁祉の養子となる[8]。また同年、ロシア帝国への警戒心を持ち、樺太などへの視察を行おうと箱館に渡ったが、病を得て断念し帰郷した[8][9]。養父(兄)の長患いにより家席を勤め、武頭、脇番頭、軍事出兵二の手副長を務めた[8][10]

慶応4年(1868年)参政事務・山中七ケ宿口参謀となる[8][10]。藩論が一定しないなか勤皇を主張し藩主にも進言したが受け入れられずに白河口の戦いに派遣されたが、敗走した[1][2][6][11][12][13]

宇和島藩からの使者の説得により仙台藩は新政府に謝罪降伏を決し、増田が使者として二本松官軍本営に謝罪書を提出した[14][15]

その後、新藩主伊達宗基の補翼や執政、議事局総裁権大参事大参事を歴任した[2][16][17]

廃藩置県後、一関県参事、水沢県権令磐井県権令などを歴任した[1][2][6][11][18][19]

1878年(明治11年)旧仙台藩士族と共に第七十七国立銀行(後に民営化されて七十七銀行となった)の設立に尽くし、取締役に就任[1][2][11][19][20]

1879年(明治12年)宮城県会議員に選ばれ、その在職期間中ほとんど議長を務めた[1][2][6][11][20]

国会開設請願運動に加わり、宮城改進党総理宮城政会副会長を務めた[2][6][11]

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第1区から無所属で立候補して当選され、大成会に所属した(一期在任[1][2][5][11][20])。

再選失敗後、1892年(明治25年)5月3日、貴族院勅選議員へ任じられ[21]終身在任した[1][2][11][20][22]

伝記

  • 小野寺永幸、小野寺敬子著『彗星の維新政治家増田繁幸の生涯』一関プリント社出版部、1994年。

脚注

参考文献

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