士蔿
晋の政治家
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略歴
献公6年(紀元前671年)、晋では、桓叔・荘伯を祖とする公族が強大となっていたため、献公はこれを心配した[1]。士蔿は、公子らと共謀し、富子を讒言して除いた[1]。
献公7年(紀元前670年)には、游氏の2人の子も殺害した[2]。
献公8年(紀元前669年)には、公子らを煽動して游氏を族滅すると、聚に城を築いて公子らを居住させた[3]。同年冬、献公は、聚を包囲して公子らを皆殺しにした[3][4]。
献公9年(紀元前668年)春、士蔿は、大司空に任ぜられた[5]。
献公10年(紀元前667年)、献公が西虢を攻めようとした際、士蔿は諫言した[6][7]。
献公14年(紀元前661年)[8]、献公が太子申生のために曲沃に城を作った[9]。この時、士蔿は、申生に城が与えられながら、その地位が下軍の将にとどまっていることを理由に、君主として立つことが困難であるから、呉の太伯の先例に倣って亡命するよう申生に説いた[9]。しかし、申生は、士蔿の助言に従わなかった[8]。
かつて、献公が重耳(後の文公)と夷吾(後の恵公)のために城を築くよう士蔿に命じた際、壁に薪を埋めたことがあった。夷吾がこれを訴えて献公が士蔿を詰問すると、士蔿は、官にあって命に背くのは不敬だが、敵の城を強固にするのは不忠であると述べた[10][11]。その後、士蔿は、「一つの国に三人の君主がいる。私は誰に仕えればよいのか」と言ったとされる[10]。
また、法にも明るかった事から、晋の国法『士蔿の法』を定め、後に孫の士会が定めた『范武子の法』と並んで、長く尊重された。