日本書紀には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたとする記事があるので、品治もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。
天武天皇12年(683年)12月13日に、多品治は伊勢王、羽田八国(羽田矢国)、中臣大島と共に判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。この事業は年内には終わらなかった。品治の位はこのとき小錦下であった。
天武天皇13年(684年)11月1日に、多臣など52氏は新たに朝臣の姓を授かった。
天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿で博打をして遊んだ。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。多品治はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人の中の一人であった。
持統天皇10年(696年)8月25日に、品治は直広壱と物を与えられた。壬申の乱の際に始めから従ったことと、堅く関を守ったことが褒められたのである。他の例からすると、この贈位記事が品治の死去を意味している可能性がある。
なお、『和州五郡神社神名帳大略註解』巻4補闕に所収されている、久安5年(1149年)謹上の「多神宮注進状」によれば、太安万侶は子とされる[1][2]。