多田宗太郎
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豪農多田家と金磯新田
金磯町の近世の豪農多田家は農業と回船業を営んでいたが、この地域が堤防の外側にあり、しばしば洪水や高潮の被害を受け、人々を苦しめていた為、三代目助右衛門は元禄2年(1689年)、現在のJR南小松島駅から阿波赤石駅の北方までの区間の西側一帯の干拓、開拓を開始した。
助右衛門の意志は代々引き継がれたが、一時期は田畑や回船、自宅までも売り払ったという。しかし着実に進む開拓は徳島藩からも認められ、七代目助右衛門時には苗字帯刀が許され、九代目にして、150ヘクタール余りの新田が完成し、藩主が「金磯新田」と名づけたのである。
宮地堅磐(宮地水位)の禁厭秘辞の小松島皇大神宮と水位翁によると宗太郎は、多田家の宗旨を真言宗から神道に変えて神仙道を深く信奉したと伝えられている。