文明3年(1471年)が、室町・戦国時代に多賀郷という呼び名が現われたはじまりである。そこでは現在の多賀城市内の八幡地区について、宮城郡多賀郷59郷のうち八幡郷と表現されていた[6]。この後戦国時代を通じて多賀郷という呼び方が用いられた。正確な範囲は不明だが、鎌倉時代に多賀国府域とは異なる地方単位をなしていた八幡荘の中心部まで含んでいる。八幡荘を支配した八幡氏と多賀国府周辺を支配した留守氏は南北朝時代にしばしば対立しており、その後に八幡氏が服属したという経緯があった。そのため多賀郷という地域名は、戦国時代の留守氏の領地・勢力圏を指すものとして生まれた可能性が指摘されている[7]。
これと別に、江戸時代前期の仙台藩による調査に対し、付近の住民はみなかつての多賀郷は洞ノ口にあったと答えた。洞ノ口は多賀国府域の中にあって中世に大きな町があり、国府が位置していたとも考えられる場所である。広い多賀郷と、その中心的な町である多賀郷町と、広狭二種の多賀郷があったことになろう[8]。