多重実現可能性
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概念
心の哲学における多重実現可能性のテーゼは、同一の心的状態が異なる物理的状態によって実現されうると主張する。別の言い方をすれば、物理的状態から心的状態へは多対一の対応関係があるということである[2]。多重実現可能性は一般に心的状態の多重実現可能性に限定されない。多くの種類のものが多様な物理的装置によって実現されうる。たとえばコルク栓抜きとして機能しうる物理的装置は多様に存在する。心的状態もまた様々な仕方で実現されうる。チューリング機械の論理的状態が異なるメカニズムにおける異なる構造的状態によって実現されうるのと同じように、類比的に、人間の心的状態は異なる個体において異なる物理的状態によって実現されうる[3]。たとえば痛みは、生物が異なれば神経系の異なる物理的状態と相関するが、それらの生物はすべて「痛みのなかにある」という心的状態を経験する。
心的状態は、種を超えて、個体間で多重実現可能なだけでなく、同一個体の内部でも多重実現可能であると主張されてきた。同一の個体が異なる時点において、同じ心的状態を物理的に異なる形で実現することがありうる。神経可塑性——外傷、病理、自然な生物学的発達、その他の過程によって損傷を受けた脳の他の部分の機能を、別の領域が引き受けうるという事実——は長らくこの例の一つと考えられてきた[4]。しかし、ニューロンが死んでそれらの間の結合が再配線されるといった、より平凡な神経生理学的事実もまた多重実現可能性の例である[2]。神経可塑性が多重実現可能性を支持するという議論には異論もある[5]。
グァルティエロ・ピチニーニは、関連する三つの性質——可変的実現可能性(variable realizability)、多重実現可能性(multiple realizability)、媒体独立性(medium independence)——を区別している[6]。
- ある性質が異なる実現子(realizer)によって例化されうる場合、その性質は可変的に実現可能である。たとえばウィングタイプのコルク栓抜きとソムリエナイフ型のコルク栓抜きはいずれもコルク栓を抜くという性質をもち、同じメカニズム——ねじを差し込んで引き抜くメカニズム——によってそれを行う。メカニズムが基本的に変わっていないので、この性質は可変的に実現可能である。
- ある性質が多重に実現可能であるためには、その性質が異なる実現子と異なるメカニズムによって例化されうる必要がある。古典的なバネ式ねずみ捕りと粘着式ねずみ捕りはいずれも、ねずみを捕えるという同じ性質を例化するが、それを異なるメカニズムによって行う。したがってこの性質は多重実現可能である。
- ある性質が異なる実現子と異なるメカニズムによって例化可能であり、かつそのメカニズムの入力と出力もまた多重に実現可能である場合、その性質は媒体独立的である。ねずみ捕りは媒体独立的ではない——入力としてねずみを必要とするからである。しかしコンピュータは媒体独立的である。コンピュータは異なる部品から異なるメカニズムへと組み立てられ、異なる種類の入力と出力を取りうる。典型的なデジタルコンピュータでは入力と出力は電圧であるが、量子コンピュータでは入力と出力は異なるものになる。
意義
多重実現可能性は、タイプ同一説に対する論拠として、また還元主義的な心の理論一般に対する論拠として、また機能主義的な心の理論を擁護する論拠として、さらには機能主義的な心の理論に対する論拠としても用いられてきた。
1960年代からヒラリー・パトナムは、多重実現可能性をタイプ同一説に対する論拠として用いた。具体的にはパトナムは、痛みの多重実現可能性が、タイプ同一説に反して痛みがC繊維の発火と同一ではないことを含意すると指摘した[3][7]。より一般的には、多重実現可能性は心理学的属性が物理的属性と同一ではないことを示す[8]。むしろ心理学的属性は物理的属性の選言である[7][8]。フォーダー、パトナムをはじめとする論者は、多重実現可能性がタイプ同一説に対する効果的な論拠であると同時に、より高次の心的現象についてのいかなる低次の説明も十分に抽象的かつ一般的ではないことを含意することを指摘した。
ジェリー・フォーダー(1975年)は多重実現可能性をより一般的に展開し、より高次の科学と物理学との関係についてのいかなる還元主義的説明に対する論拠とした[9]。フォーダーはまた、心理学だけでなく、いかなる特殊科学(すなわち物理学よりも「高次の」あらゆる科学)の還元主義に対しても多重実現可能性を用いて論じた。彼の還元主義の特徴づけでは、理想的かつ完成された心理学におけるすべての心的種類述語(mental kind predicates)が、理想的かつ完成された物理学における物理的種類述語に対応していなければならない。フォーダーは、還元される理論の用語すべてが還元する理論の用語と橋渡し法則から導出可能であることを要求するアーネスト・ネーゲルの還元理論を、還元の正典的な理論として採用することを提案する。一般化された多重実現可能性が成り立つとすると、これらの心理物理的橋渡し法則の物理科学側の部分は、結局のところ、心的種類のあらゆる可能な物理的実現を指示するすべての用語の(場合によっては無限の)選言となる。この選言は種類述語ではありえず、したがって命題全体は物理法則ではありえない。それゆえ特殊科学は物理学に還元することができない。
機能主義は、心的種類を原因と結果のみによって特徴づけられる機能的種類と同一視しようとするものであり、素粒子物理学から抽象化しているため、心身関係のより適切な説明であると思われる。これらの議論およびそれらに基づくその他の議論の結果として、1960年代以降、心の哲学における支配的な理論は、多重実現可能性に基づく非還元的物理主義の一種となっている[10]。
1988年、ヒラリー・パトナムは機能主義に対する論拠として多重実現可能性を用いた。機能主義は本質的に薄められた還元主義あるいは同一説であり、心的種類が最終的には機能的種類と同一視されると指摘した上で、パトナムは心的種類はおそらく機能的種類に対しても多重に実現可能であると論じた。同一の心的状態あるいは性質は、万能チューリング機械の異なる状態によって実装あるいは実現されうるのである。
賛成論
構想可能性の論拠
パトナムは、地球外生物[7]、人工知能を備えたロボット[8]、シリコンを基盤とする生命体が、人間と同じ神経化学をもたないという理由だけで、アプリオリに痛みを経験する能力を欠くとみなされるべきかと問う。彼らが我々と異なる素材からできているにもかかわらず、我々と同じ心理学的状態を共有しているかもしれない、と想像することができる。我々がその可能性を構想(conceive)できるという事実は、多重実現可能性が可能であることを意味する[11]。
蓋然性の論拠
パトナムは、心的状態が多重に実現可能であることの証拠として動物界からの例を挙げる[7]。進化生物学(進化神経科学を含む)と比較神経解剖学・神経生理学は、哺乳類、爬虫類、鳥類、両生類、軟体動物が異なる脳構造をもつことを明らかにしてきた。これらの動物が同じ心的状態と性質を共有しうるのは、それらの心的状態と性質が異なる種においては異なる物理的状態によって実現されうる場合のみである[7]。パトナムは、タイプ同一説や他の還元主義的理論は、多重実現可能性の一例さえあれば反証されうるような、極めて「野心的」で「ほとんど信じがたい」推測を行っていると結論する[要出典]。それどころか、組成や構造が異なるために同一の物理的状態にはなりえない生物が、それでもなお同一の心理学的状態にあることは十分にありうる[12]。一部の哲学者は、多重実現可能性が還元主義よりはるかに蓋然性が高いとするこの論拠を蓋然性の論拠と呼んでいる[13][14]。
アプリオリの論拠
パトナムはまた、機能的同型性(functional isomorphism)に基づく補完的な論拠を定式化している。彼はこの概念を次のように定義する。「二つのシステムが機能的に同型であるのは、一方の状態と他方の状態のあいだに機能的関係を保存する対応関係が存在する場合である」[15]。たとえば、二台のコンピュータが機能的に同型であるのは、一方の状態間の継起的関係が他方の状態間の関係に正確に反映される場合である。電気部品から作られたコンピュータと歯車から作られたコンピュータは、構成的には異なっていても機能的に同型でありうる[15]。これをアプリオリの論拠と呼ぶ哲学者もいる[13]。
反対論
心的状態が多重に実現可能であるというテーゼ自体は受け入れつつ、多重実現可能性が機能主義その他の非還元的物理主義を帰結するという見方を否定する哲学者もいる。
他の科学における還元主義
多重実現可能性に対する初期の反論は、狭い「構造横断型」のバージョンに限定されていた。デイヴィッド・ルイスを皮切りに、多くの還元主義者は、科学実践においてはある理論を他の理論へ局所的かつ構造特異的な還元によって還元することが非常に一般的だ、と論じてきた。この種の理論間還元の頻繁に引かれる例は温度である。気体の温度は分子の平均運動エネルギーと同一である。固体における温度は、固体の分子の運動がより制限されているため、分子の最大運動エネルギーの平均と同一である。プラズマにおける温度は、プラズマの分子が引き裂かれているため、謎である。したがって温度は多様なミクロ物理的状態において多重に実現されている[9]。
選言
ジェグォン・キムは、選言(disjunction)——すなわち、ある心的状態の物理的実現は特定の物理的状態ではなく、その心的状態を実現する物理的状態の選言である、という考え——が多重実現可能性に対して問題を生じさせると論じている[16]。パトナムもまた初期の著作でこの「選言的」可能性を否定する議論を行っている[15]。ブロックとフォーダーも同様に反対している[17]。
物理的領域の因果的閉鎖性
ジェグォン・キムは、非還元的物理主義が物理的領域の因果的閉鎖性——物理学が物理的事象の完全な説明を与えるという前提——に違反する、として非還元的物理主義に反対している。心的性質に因果的有効性があるとすれば、心的性質は物理的性質と同一であるか、さもなくば広範な過剰決定が存在しなければならない。後者は概念的な理由から、ありそうにないか、不可能ですらあるとされる。キムの議論が正しいならば、選択肢は還元か消去のいずれかになる。
一般化可能性の不足
多重実現可能性に対する批判の一つは、一般化された多重実現可能性の可能性を扱おうとするいかなる理論も、必然的に局所的かつ文脈特異的(ある時点における、ある構造タイプの特定のトークンシステムにしか言及しない)にならざるをえず、その還元は科学的理論化において最小限受け入れられる程度の一般性とすら両立しなくなる、というものである[16]。神経可塑性を説明するのに必要なこの程度の多重実現可能性を許容するほど狭い心理学は、人間心理を説明するのに必要な一般化を捉えるほど一般的なものにはほぼ確実になりえないだろう。
一部の還元主義者[2]は、これは経験的にもっともらしくないと反論する。神経科学における研究と実験は、脳構造に普遍的な一貫性が存在するか、あるいは存在すると想定されることを必要とする。脳構造の類似性(相同性ないし収束進化によって生じる)によって、我々は種を越えた一般化が可能となる。仮に多重実現可能性(特にその一般化された形式)が経験的事実であるなら、ある動物種(または一個体)について行われた実験結果は、他の種(あるいは同種の他の個体、一般化された形式では同一個体ですら)の行動や特性を説明するために一般化したとき、意味も有用性ももたなくなってしまう。
ソンス・キムは近年、脳構造の相同(homology)と相似(homoplasy)の区別を用いてこの反論に応えている。相同とは、二つ以上の種が共有し、共通祖先から遺伝された生理学、形態学、行動、心理学の特徴である。相似とは、二つ以上の種が共有するが共通祖先から遺伝されたのではなく、独立に進化した類似あるいは同一の特徴である。アヒルとカモノハシの足は相似の例であり、ヒトとチンパンジーの手は相同の例である。脳構造が相同であるという事実は、多重実現可能性に対する証拠も反証も提供しない。多重実現可能性のテーゼを経験的にテストする唯一の方法は、脳構造を調べ、ある相似的な「心理学的過程ないし機能が異なる素材から『構築』され」、コウモリと鳥類の飛行能力が異なる形態生理学から生じているのと同じように、異なる脳構造によって支えられているかどうかを判定することである。収束的進化系統において、類似あるいは同一の脳構造によってもたらされる類似した行動的出力ないし心理学的機能の発生は、多重実現可能性に対する一定の証拠を提供することになる。心的現象を実現できる物理システムのタイプに制約がないとすれば、こうしたことが起こるのは極めて不確実だからである。ただし、これは炭素を基盤としない生命体や機械のような根本的に異なる物理システムにおいて心的状態が実現可能であるという可能性を完全に反駁するものではない。
歴史的補足
多重実現可能性および機能主義との関係についての考察は、1960年代に哲学において用いられるようになる以前から存在している。たとえばアラン・チューリングは1950年に多重実現可能性について言及しており[18]、次のように書いている。「バベッジの解析機関が完全に機械的であったという事実は、我々がある迷信を取り払う手助けとなる。現代のデジタルコンピュータが電気的であり、神経系もまた電気的であるという事実には、しばしば重要性が付与される。だがバベッジの機械は電気的ではなく、またあらゆるデジタルコンピュータはある意味で等価であるから、電気の使用は理論的重要性をもちえないことがわかる。〔……〕そうした類似性を求めるなら、我々はむしろ機能の数学的類比を探すべきである」[19]。