大オルダ

From Wikipedia, the free encyclopedia

大オルダ
Uluğ Orda

ジョチ・ウルス
1433年ごろ - 1502年
大オルダの国旗
(国旗)
大オルダの位置
大オルダの領域(1389年ごろ)
公用語 キプチャク語
首都 サライ
元首等
1423年 - 1459年 クチュク・ムハンマド
1459年 - 1465年マフムード (ジョチ家)
1465年 - 1481年アフマド (ジョチ家)
1495年 - 1502年シャイフ・アフマド
変遷
大オルダ成立 1433年
大オルダの消滅1502年
通貨ディルハム
現在ロシアの旗 ロシア, カザフスタンの旗 カザフスタン

大オルダ(だいオルダ、1466年 - 1502年)は、黄金のオルダジョチ・ウルスの後継国家群)崩壊後に13世紀ごろに南ロシアのサライを首都として存在したジョチ家当主の政権で、ジョチ・ウルス裔の国家の歴史学的呼称。またの名は、黄金のオルドといい、ジョチ・ウルスの系譜を継いだ政権であった。領域は、南ロシアキプチャク草原ステップに至った。

15世紀後半、ジョチ・ウルス分裂後の周辺地図

概略

14世紀末から15世紀初めにかけてジョチ・ウルスは一時的に統一の相を取り戻す[1]。14世紀の末に君臨したトクタミシュ、その後みずからはハン位につかなかったものの実質的な支配者としてハン国を牛耳ったエディゲの両名が復興の立役者であった[2]。しかし、トクタミシュが1406年、エディゲが1419年に死亡した後は、ジョチ・ウルスの分裂傾向はやむことなく、1430年代末から1440年代にかけカザン・ハン国クリミア・ハン国があいついで成立すると、諸ハン国の分立状態が確定的となる[2]。こうした諸勢力の分立のなかで相対的な優位性をそなえた存在であり、それがためにジョチ・ウルスの後継者とみなされたのが大オルダである[2]。1419年のエディゲの死からカザン・ハン国、クリミア・ハン国の建設までのあいだは、諸勢力の併存という体制が生成・確立していく時期であった[2]。そしてこれこそがウルグ・ムハンマドクチュク・ムハンマドサイイド・アフマドの活躍した時代にほかならない[2]。三者のなかで最初に歴史の舞台に登場してきたのはウルグ・ムハンマドであり、地盤であったクリミア半島を進発してサライをおさえ、ハン位についた[2]。ついでヴォルガ川下流域の支配をめぐってウルグ・ムハンマドとクチュク・ムハンマドが南北に対峙、その後西方にサイイド・アフマドがあらわれると、三者が鼎立、最終的にはサイイド・アフマドとクチュク・ムハンマドの東西対立の時代となる[2]。複数勢力が競いながら東西南北に並立する、こうした流動的な状況変化の中で、その時々の最強者、均衡する力関係のなかの重心の位置にあったものが「大オルダ」のハンである[2]。何か特定勢力の長であるよりも、諸勢力のなかの相対的な首位者こそが、その地位にある者とみなされたのである[2]。それはジョチ・ウルスの伝統的な中核部分であったヴォルガ川下流域をおさえたウルグ・ムハンマドやクチュク・ムハンマドであっても、西方の草原地域の支配者であったサイイド・アフマドでもよく、この点で大オルダの最初のハンとしてこの三人の名前があげられるのも故なしとしないのである[2]。その後、こうした権力関係が錯綜する星雲状態はしだいに整理され、いくつかの明確な特徴を持った集団が形成されていく[2]。ヴォルガ川中流のカザンを拠点にウルグ・ムハンマドの子孫をハンとして戴くカザン・ハン国、クリミア半島を基盤にハジー・ギレイの子孫が代々のハンとなったクリミア・ハン国[2]。これらおよび、すでにヴォルガ川の東方に成立していたノガイ・オルダによって地理的にくっきりとした輪郭を与えられたのが大オルダであり、クチュク・ムハンマドの子孫がサライを拠点に君臨した[3]。地理的な枠組みと王朝家門という基準によって明確な特徴が浮き彫りにされると、それは以後も継続することになる[3]。草原地帯のどこを拠点にしようとも最強勢力であるならば大オルダのハンとみなされる、ということではなくなってくる[3]1502年のクリミア・ハンであるメングリ・ギレイの襲撃によって大オルダが滅亡したとされる出来事はウルグ・ムハンマド、クチュク・ムハンマド、サイイド・アフマドらが活躍した往時ならば、勝利者のメングリ・ギレイがあらたな大オルダのハンとなったというとらえ方をするのも可能であったろうが、16世紀初めの時点では、事態はあくまでクリミア・ハン国の覇権と大オルダの滅亡として受けとめられたのである[3]

歴史

トカ・テムル朝のジョチ・ウルス。まだこの頃は、クリミア・ハン国や、アストラハン・ハン国は独立しておらず、ジョチ・ウルスの解体は初期の段階である。しかし、キエフの地はリトアニアに奪取されているし、東部の多くの地域は支配権を失っている。この地図では、ノヴゴロド国までもがジョチ・ウルスの支配地域になっている。この約百年後には、大オルダは成立する。

ウルグ・ムハンマド、クチュク・ムハンマド、サイイド・アフマドの争い

14世紀末のジョチ・ウルスにおいてハン位を獲得・保持するのに必要な勢力を維持するために欠かせなかったのが、有力氏族の支援であった[4]。当時ジョチ・ウルス内にはタタール人の名門部族としてシリン、バールィン、アルグィン、キプチャクの4部族があった[4]。このなかでも筆頭の立場にあったのがシリン部族であった[5]。名門氏族シリンの首長テクネをはじめとするタタール人の貴顕の支持を得たウルグ・ムハンマドは1419年クリミア半島を進発し、ヴォルガ川下流の拠点ハジ・タルハンを掌握してハンに即位した[5]。ただし、この時点ではまだウルグ・ムハンマドの権力も盤石といえるようなものではなかった[5]。彼の政権にとってとりわけ懸念すべき材料となったのが、ノガイ・オルダすなわちマングト部族の動向である[5]。ウルグ・ムハンマドの父のイチキリ・ハサンについては、ノガイの祖エディゲが苦境にあったとき、彼を敵方に引き渡しその死の因を作ったという言い伝えがあった[5]。このためエディゲの子孫たちがベクとなって率いていたマングト部族のノガイ・オルダとウルグ・ムハンマドとの関係は独特の緊張をはらんだものにならざるをえなかった[5]。そんな中、このマングトの軍事力を背景にウルグ・ムハンマドの覇権に挑んできたのが、同じトカ・テムル家で東部を根拠地としていたバラクである[5]。バラクはエディゲの長子で、父のあとをついでベクとなっていたマンスールをハンに次ぐ顕職であるベクリャリベクの地位につけ、1421年から1422年の間にウルグ・ムハンマドを破って彼をヴォルガ川流域から駆逐した[5]。敗れたウルグ・ムハンマドが頼ったのはリトアニア大公ヴィータウタス(在位:1401年 - 1430年)である[5]。リトアニアで暫時、雌伏の時をすごしたのち、ウルグ・ムハンマドはバラクに対する反攻ののろしをあげた[5]。リトアニアの支援を受けたウルグ・ムハンマドは1424年から1425年の間にクリミアでハンであることを宣言し、ここからヴォルガ流域に向かい、1426年にはバラクに勝利して彼を東方へ追った[5]。その後もウルグ・ムハンマドとバラクの争いがしばらく続いたが、結局ウルグ・ムハンマドが勝利をおさめた[5]。その間マンスールを裏切りのかどで処刑したバラクはマンスールの弟のカーディーとナウルーズを敵に回し、1428年から1429年の間に彼らに殺害されることになる[6]。かくして敵手を葬り、権力を安定させたかに見えたウルグ・ムハンマドの新たな挑戦者として登場してきたのが、同じトカ・テムル家で同名のムハンマドであった[6]。この二人のムハンマドを区別するため両者はそれぞれ「大なる、年長の」を意味する「ウルグ Uluγ」、「小なる、年少の」を意味する「クチュク Küchük」をつけて呼ばれるようになる[6]。1428年ころ上記のカーディーとナウルーズを味方につけたクチュク・ムハンマドはハジ・タルハンを自分の支持基盤としてウルク・ムハンマドの権力を脅かす存在となった[6]。しかし、ほどなくクチュク・ムハンマドとカーディー、ナウルーズとの間に仲たがいが生じたため、カーディーはクチュク・ムハンマドのもとを去ったあと死亡した[6]。一方ナウルーズは配下の軍勢を連れてウルグ・ムハンマドの側に寝返った[6]。これによってウルグ・ムハンマドはナウルーズをベクリャリベクに抜擢することになる[6]。ナウルーズを旗下に加えたことによってウルグ・ムハンマドの権力は盤石になったかのようであった[6]。基盤としてのクリミア、有力氏族の支持、隣国リトアニア大公国の支援と、これまでウルグ・ムハンマドの権力を支えてきた諸要素に加えて新興勢力のマングトの軍事力さえ手に入れたのであるから[6]。しかし、実際のところはナウルーズの加入とベクリャリベクへの抜擢はウルグ・ムハンマドの陣営の内部に大きな亀裂を生じさせる結果となったのである[6]。ウルグ・ムハンマドの旗揚げ以来、長年にわたって彼の傍らにあってその権力を支えてきたのは、タタールの有力氏族の中でも屈指の名族であったシリンの首長であるテクネやコンギラト部族の長ハイダルであった[6]。古参の股肱であった彼らにとっては、新参のナウルーズに対する優遇は、自分たちの功業を無視するかのようなふるまいであり、心中穏やかでいられたはずがなかった[6]。にもかかわらず、ウルグ・ムハンマドはその「なみはずれた高慢と傲岸不遜のゆえに」配下の者たちをなだめるどころか、かえってその不満に油を注ぐようなまねをした[7]。はたして、ウルグ・ムハンマドはハイダルとはリトアニア関連の案件でテクネとはモスクワ大公国の大公位争いをめぐる問題でそれぞれ軋轢を起こし、両者の恨みを買う羽目となる[7]。ウルグ・ムハンマドに愛想尽かしをしたテクネとハイダルは、1432年彼のもとを去り、配下をひきつれてクリミアにもどった[7]。そればかりか彼らはサイイド・アフマドをクリミアの支配者として招き入れることすらした[7]。もともとクリミアを地盤とするウルグ・ムハンマドがふたたびクリミアに戻ってこの地を隷下におくようになれば、自分を裏切ったテクネらに鷹懲の一撃を下すのが必至である以上、テクネらもウルグ・ムハンマドに対抗しうる人物にクリミヤの支配を委ね、その庇護下に入らざるを得なかった[7]。そこで彼らが白羽の矢を立てたのがサイイド・アフマドであった[7]

テクネらの出奔に端を発する混乱とその後の勢力関係の再編を経て成立したのは、ウルグ・ムハンマド、クチュク・ムハンマド、サイイド・アフマドのあいだの勢力均衡である[7]。三者のうちいずれもが他を圧倒するだけの力を持っていなかったために、互いにけん制し合って動くに動けないという状態となった[7]。誰かが他の一人を攻撃すれば、自身が第三の人物によって背後を突かれるかもしれない、という危惧が行動を掣肘したのである[7]。こうした三すくみの状態が1433年 - 1436年にかけて続いたのち、事態は一挙に新たな展開を見せる[7]1436年1437年)ウルグ・ムハンマドのもとでベクリャリベクの要職にあったマングトのナウルーズが彼のもとを去り、クチュク・ムハンマドのベクリャリベクとなったのである[7]。これによって大幅な戦力低下をきたしたウルグ・ムハンマドはその後、サイイド・アフマド、クチュク・ムハンマドに相次いで敗れ、壊滅的なダメージを被る[8]。サライを去った彼は3000人の部衆を引き連れて北方へとお ちのびていった[8]。その後、ウルグ・ムハンマドはヴォルガ川中流のカザンを拠点とするカザン・ハン国を建設することになる[8]。ウルグ・ムハンマドが去った後、サライの主となったのは彼の長年のライバルであったクチュク・ムハンマドであった[8]。ヴォルガ川河口部の要衝ハジ・タルハンにくわえて念願のサライを支配下に入れたクチュク・ムハンマドはジョチ・ウルスの中枢部であったヴォルガ川下流域を一手に領して大勢力を築くこととなったが、その西方には強力な遊牧勢力を従えたサイイド・アフマドがいた[8]

サイイド・アフマドとは

各種の歴史文献において、サイイド・アフマドが何者であるか記述するにあたってまず指摘されるのは、彼がトクタミシュの近い縁者であった点である[8]。トクタミシュは14世紀の終わりに出てジョチ・ウルスにふたたび統一をもたらした英主であった[8]。中央アジアの雄であったティムールを一時は頼り、後には戦った人物としても知られており、その活動はユーラシアの広範な地域におよんでいる[8]。サイイド・アフマドの出自についてはトクタミシュの息子という説と、孫であるという説がある[8]。さらに後者の場合、トクタミシュの息子たちのなかの誰がサイイド・アフマドの父親であったのかという点でも諸説が存在している[8]。いずれにせよ重要なのは解体化しつつあるジョチ・ウルスにあってサイイド・アフマドが単なる一地方勢力の長にとどまるのではなく、再統一の大業の担い手たろうとしたとき、彼の血統が持った意味である[8]。偉大な父祖の後継者たらんとする自負と矜持、草原の人々から寄せられた期待・衆望、これらの点でサイイド・アフマドは格別の立場にあったのであり、ウルグ・ムハンマドやクチュク・ムハンマドとは一線を画する存在であったといえよう[9]。血統の問題とならんでサイイド・アフマドの際立った特徴をなしていたのはリトアニアとの関係の深さである[9]。サイイド・アフマドはリトアニア育ちであった[9]。他のタタール人皇子たちとともに大公ヴィータウタスの宮廷で傅育された[9]1430年にヴィータウタスが死亡した後はその従兄弟でリトアニアの新大公となったシュヴィトリガイラ(在位:1430年 - 1432年)に組するようになった[9]。その後もサイイド・アフマドはリトアニアの権力争いにかかわり続けることになる[9]。リトアニア育ちのタタールの御曹司であったサイイド・アフマドが覇権争いに参入してきたのは1432年のことであった[9]。ヴォルガ川の西方、南ロシアのステップでハンたるの名乗りをあげたのである[9]。これを機に、彼を軸にして草原の情勢は動きだしていく[9]。この年、ウルグ・ムハンマドのもとを離れてクリミアにもどったテクネとハイダルはサイイド・アフマドをクリミアの新たな支配者として招いた[9]。三すくみで動くに動けないライバルたちのあいだには、しばらくのあいだ相対的な平穏が保たれた[9]。それにつづいて起こったのがウルグ・ムハンマドの失墜であった[9]。マングトのナウルーズに背かれたウルグ・ムハンマドの勢力が衰えたのを見たサイイド・アフマドはすかさず彼を襲って破り、その部衆の多くを吸収した[9]。かくして三強の一角が崩れた後、サイイド・アフマドとクチュク・ムハンマドの対峙の時代が訪れる[9]。両者の力関係は対峙の始まりからしばらくのあいだ1430年代の後半から1440年代の初めにかけての時期は、クチュク・ムハンマド優位のうちに推移した[10]。ジョチ・ウルスの建国以来の中核部分であったヴォルガ川下流をおさえていた強みであろう[10]。しかるに、1440年代半ばには西方のサイイド・アフマドの方がヘゲモニーを握っていると周辺諸国に見られるようになる[10]。ポチェカエフはこの勢力逆転の背景として東方のアブル=ハイル・ハンの動向を挙げている[10]。1440年代にアブル=ハイルの攻撃を受けたクチュク・ムハンマドが相対的に兵力を減殺したためである。両者の争いによって言わば漁夫の利を得るかたちとなったサイイド・アフマドが勢力を伸張したというのである[10]。サイイド・アフマドの支配領域の核となる地域としてトレパヴロフは東はドン川、西はドニエプル川、南はクリミア半島と本土とをつなぐペレコプ地峡、北はドン川の左側(=北側)に注ぐ支流群、ないしオカ川をあげている[10]。本領にあたるこれらの地域に加えて、クリミア半島までも勢力下に収めていたのであるから、この時期のサイイド・アフマドは解体化しつつあるジョチ・ウルスの西部における最強勢力と呼ぶべき実力を備えていたといえよう[10]。黒海北岸の草原を地盤に強力な遊牧勢力を従えるようになったサイイド・アフマドは父祖の偉業の再現者としてジョチ・ウルスの統一への歩みを進めつつあるかのようであった[10]。その実現のために、彼が次なる勢力拡大の対象とすべきは当然のことながら東方であったろう[10]。クチュク・ムハンマドを駆逐して歴代のハンの居所サライを含むヴォルガ川下流域を手中にしたあかつきには自他ともにゆるす草原地帯の覇者の誕生である[10]。にもかかわらず、サイイド・アフマドが主たる関心を寄せ、その軍勢を率いて向かった先は東ではなく、西北のリトアニアであった[10]。おりしもリトアニアは大きな転機を迎えつつあった[10]ポーランド王国との有名なヤギェウォ連合の行方である[10]1386年にリトアニアの君主ヤギェウォとポーランド女王ヤドヴィガとの結婚で成立したヤギェウォ連合はのちにこそ同君連合、国家の合同へと進展していくものの、連合成立当初はヤギェウォ一族の成員をそれぞれに君主として戴く二つの国の緩やかな結びつきにとどまっていた[11]。ポーランド王ヴワディスワフ2世となったヤギェウォの時代、リトアニアは彼の従兄弟であった大公ヴィータウタスのもとに東欧の強国として確固たる存在感を示していたのである[11]。事態が変わるのはヤギェウォの息子のヴワディスワフカジミエシの兄弟の時代である[11]。ポーランド王ヴワディスワフ3世となっていた兄が対トルコ十字軍で1444年に戦死したため、すでにリトアニア大公となっていた弟のカジミエシがポーランド王(在位1447年 - 1492年)となり、二つの国が一人の君主の支配下におかれることになった[11]。問題はこの唐突に実現した同君連合がリトアニアの貴族の一部に強い不満と危機感をいだかせたことである[11]。独自の君主を擁する自立したリトアニアを標榜する彼らはヴィータウタスの甥をあらたな大公候補に押し立てて反カジミエシの戦いに突入した[11]。これにサイイド・アフマドが加担したのである[11]。結果としてこのリトアニアの内訌への介入がサイイド・アフマドの没落をもたらすことになる[11]。1447年ころはじまったカジミエシとリトアニア自立派の戦いにおいて後者に組したサイイド・アフマドは数度にわたってリトアニアを襲撃、翌1448年には当時リトアニア領であったウクライナのキエフを襲って甚大な被害をもたらした[11]。しかし、結局リトアニア自立派とサイイド・アフマドはカジミエシとの戦いに敗れることになる[11]。さらにサイイド・アフマドはこの争いに際してカジミエシの側についたモスクワ大公国を攻撃して敗れたため、当時の北方の強国であったポーランド=リトアニア、モスクワ大公国のすべてを敵に回すという逆境に陥った[11]。そればかりではない。南方のクリミア半島までがサイイド・アフマドの掌中から失われていくことになった[11]。この時サイイド・アフマドによってクリミアを追われた者たちの中にハジー・ギレイなるタタール人の皇子がいた[1]

ハジー・ギレイがクリミア・ハン国を建国

リトアニア問題でサイイド・アフマドと敵対関係に入ったカジミエシがサイイド・アフマドのクリミア支配にくさびを打ち込むべく白羽の矢を立てたのが、このハジー・ギレイであった[1]。カジミエシの支援を受けたハジー・ギレイは故郷のクリミアに進攻した[1]。これに対し、かつてサイイド・アフマドを招致したテクネはこのたびは彼を裏切ってハジー・ギレイの側につき、1449年ハジー・ギレイはクリミアのハンとなる[1]。名門氏族シリンの長であったテクネの動向にバールィンら他の名族もならったため、クリミアにおけるハジー・ギレイの権力基盤はゆるぎないものになっていく[1]。ハジー・ギレイはウルグ・ムハンマドの従兄弟ギヤースアッディーンの息子であり、クリミアで長く支配の根を張って来た一族の一員であった[1]。その点ではクリミアは一時サイイド・アフマドの勢力下にはいったものの、結局伝統的な支配秩序に復したともいえよう[1]。その後、ハジー・ギレイの子孫たちは長らくクリミア・ハンとしてこの地に君臨することとなる[1]。かくして南北から挟撃されるようになったサイイド・アフマドは敗れて逃亡する[1]。彼が敗残の身を寄せた先はキエフであった[1]。リトアニア育ちでかの地に知己も多かったサイイド・アフマドとしては、草原世界の実力者であった自分はポーランド=リトアニア王国の支配層にとって軽々にあつかえない相手であり、いまだ十分利用価値がある人物として遇されると考えていたのであろう[1]。しかし、現実にサイイド・アフマドが受けた対応はあくまでポーランド=リトアニア王国に仇をなした敵としてのそれであった[1]。捕らわれて鎖に繋がれた彼はコヴノ(現在のリトアニアのカウナス)に護送され、その地で1455年ころ生涯を終えたのである[1]

建国

ジョチ・ウルス末期の1419年、ウルグ・ムハンマドがハンに即位したが、20年続いたウルグ・ムハンマドの支配を最終的にくつがえし、1437年(ないし1438年)にハンになったのがクチュク・ムハンマドである。サライを追われたウルグ・ムハンマドは一族郎党をひきつれて北方に去り、新たな隣人となったモスクワ大公と干戈を交えては苦杯をなめさせながらヴォルガ川の中流の都市カザンを拠点とするカザン・ハン国を建設した[12]

クチュク・ムハンマドの時代には東方にはアブル=ハイル、西方にはサイイド・アフマドという二人のハンが強勢を誇っており、ヴォルガ流域のクチュク・ムハンマドの勢威はそのあいだで埋没しがちであったのである[13]ロシアでは大オルダをさして、時として「ヴォルガのオルダ」という呼び方がされたが、これはクチュク・ムハンマド時代に大オルダが有していた支配領域の限定性、遊牧政権としての地方的な性格の故であろう[13]。大オルダはクチュク・ムハンマドから息子たちへの代替わりのころから存在感を増しながら歴史の表舞台へと浮上してくる[13]。その背景となったのは四囲の状況の変化である[13]。西方においては1440年代後半よりリトアニアの大公位をめぐる内訌に参画したサイイド・アフマドが北方諸国を相手にした戦いに敗れ没落する[13]。一方、東方では1468年アブル=ハイルの死後、アブル=ハイルの強盛の前に逼塞を余儀なくされていた地方勢力が立ち上がり連合してアブル=ハイルの息子のシャイフ・ハイダルを倒した[13]。こうしたなか大オルダは兄のマフムードから弟のアフマドへと指導者をかえながら勢力をのばしていった[13]。クチュク・ムハンマド、アブル=ハイル、サイイド・アフマドの三者が競った時代が終わってそれぞれ息子たちの代になった際に、首尾よく自身に有利な勢力バランスを打ち立てたのがクチュク・ムハンマドの息子たち、とくにアフマドであった[13]。アフマドは東方ではアブル=ハイル一門の打倒に成功したマングトなどとの同盟を図りつつ、西方ではサイイド・アフマドの息子たちを圧迫しながら勢力を拡充していった[13]。クリミア半島こそハジー・ギレイが建国したクリミア・ハン国に譲ったものの、かつてのサイイド・アフマドの支配領域を蚕食してヴォルガ川から黒海北岸にかけての広大な草原地帯を支配するようになったのである[14]。かくしてアフマドの大オルダはロシアにとって畏怖すべき遊牧勢力として立ち現われるにいたったのである[14]

衰退

その後、大オルダは、ジョチ・ウルスの命脈を1502年までたもった。しかし、アフマド・ハンの死後に起こった兄弟たちの帝位継承争い等により急速に弱体化していった。クリミア・ハン国に首都のサライを陥落させられ滅亡したのち、滅亡させたクリミア・ハン国は長くサライを領土に組みこむことはなく、サライはタタール人の手に戻ることはなかった。また、大オルダ消滅後に大ハン位を保持したクリミア・ハン国も後にオスマン帝国の属国になり、遂に1783年にはロシア帝国に編入された。

文化・国政

ロシアにおけるイスラム教の分布。大オルダ支配地域に多い。

基本的には、ジョチ・ウルスの命脈を保った政権のため、ジョチ・ウルスの文化や国政を受け継いだ。宗教的にはイスラム教化がほぼ完了し、遂には王族の文化が(かつてのモンゴル系の文化を受け継ぎながらも)イスラム教化するに至った。しかし、領内にはロシア正教会を信仰する人々や、モンゴル系のシャーマニズムを信じ続けた人々も存在した。つまり、領内には主に

  • イスラム教
  • キリスト教
  • シャーマニスム
  • その他の小規模宗教

があった。

また、前述したように、言語的にもテュルク化を遂げ、行政命令文書は以前のモンゴル語から、地元の諸民族の影響を受けてテュルク系に変化した。

系図

ジョチから大オルダまでの系図

ジョチから大オルダまでの系図。
ジョチから大オルダまでの系図

歴代ハン

1430年代半ばに大オルダが存在していたとする研究者の間でも、誰がその最初のハンであったかについては、ウルグ・ムハンマド(大ムハンマド)、クチュク・ムハンマド(小ムハンマド)、サイイド・アフマドの3人の人物で意見が分かれている[12][15]。ここではクチュク・ムハンマドを初代とする。

  1. クチュク・ムハンマド(小ムハンマド)(在位:1423年 - 1459年)…テムルの子
  2. マフムード (ジョチ家)(在位:1459年 - 1466年?)…クチュク・ムハンマドの長男→アストラハン・ハン国
  3. アフマド (ジョチ家)(在位:1465年? - 1481年)…クチュク・ムハンマドの三男
    • ムルタザー…アフマドの長男
  4. サイイド・アフマド (大オルダ)…アフマドの次男
  5. シャイフ・アフマド(在位:? - 1502年)…アフマドの三男

脚注

参考資料

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI