「御免切願通リ訳合連印之事」という古文書[2]がある。
元禄9年(1696年)1月に大久保玄蕃知行所の方ノ上村の3名(上組庄屋・長左衛門、下組庄屋・助兵衛、下組組頭・平右衛門)が、12年前に殿様(大久保忠兼)に直訴し処罰をされた3名の処罰を解いてほしい旨の直訴である。3年前より押切村(庵原郡にある大久保家の知行地)の役人に減免をお願いしているが叶わない。なにぶん叶えてくれ。との内容である。
下記は減免願いを直訴する12年前の貞享2年(1685年)の出来事である。元禄9年(1696年)に訴状を殿様に直訴した者と名前が同じであるが別人である。「御免切願通リ訳合連印之事」に経緯が記されている。
- 登場人物
- 大久保忠兼=殿様
- 長左衛門=上組の庄屋
- 助兵衛=下組の庄屋
- 平右衛門=下組の組頭
貞享2年(1685年)、村の3人は殿様に年貢を下げて貰うよう直訴するため江戸表へ行き、糀町に宿をとり、永田馬場[3]の殿様の御屋敷御門前に3日出待ちしていた。
明日、殿様が出かけるのを知り、宿に帰って、願書を確かめ、翌朝六つ半時(7時)に門の前に詰めて待っていた。殿様が出かける際に、3人は手分けで、長左衛門は先に立ち近習を押し除け、助兵衛は殿様の乗っている篭の戸を引き開け、平右衛門は直訴文を篭の中に差し出した。
3人は下にひれ伏し、殿様は篭の中にて願書を確認した。殿様は「願書の通り叶えてやろう」と厳しく伝えた。「帰ってくるまで、控えていよ」と3人は言われ、そのとき3人の処罰の話は無かった。
殿様の帰りを待っていたところ、九つ半時(13時)に殿様が、屋敷に帰ってきた、評定の上、屋敷に呼び込み、御役所へ届け出られ、3人が申しつけられたのは「大望の願い申し出であり、殊の外おしかり遊ばれ、とが(罪)の儀は、追って申しつけるので、宿で待て」というので、宿にて呼び出しを待ち、4日後呼び出され、国元に帰ることを許された。
処罰は、村方の郷蔵へ100日の獄舎。100日目に村を追放。長左衛門、平右衛門は関方村に、助兵衛は越後嶋村に罷越。そこで7年居住したら8年目は許してやる。という内容だった。
年貢率は七つ二分五厘(72.5%)のところを、六つ二分五厘(62.5%)にしてもらった。
宝永5年(1708年)12月に方ノ上村の庄屋・三郎兵衛、平十郎と惣百姓代・六兵衛、弥左衛門、万右衛門が、大久保家の家老・渡辺彦兵衛に宛てた、方ノ上村の追放百姓3名(新五郎・孫七郎・平太夫)の「乍恐口上書を以奉願上候御事」(恐れながら書付をもって願上奉り候)という決まり文句から始まる赦免願い[4]に当時の様子を知ることが出来る。内容は下記の通りである。
8年前の元禄13年(1700年)の巳の暮のこと[注釈 1]。新五郎・孫七郎・平太夫の3名は進んでいない訴訟を役所に持って行ったが、取り上げてくれなかったので、江戸へ行き訴訟の話を申し上げた。殿様に無礼であった。申し訳ない。
家老が詮議し申し渡した内容は、「3人は追放。3人の石高49石を召し上げる。」というものだが、方ノ上村は岡部町の人馬役を多くしていますが、3人がいないと、お役をするのに難儀している。役所より五貫文ほどの銭を頂いているが、3人の石高の5分の1にも届いていない。惣百姓は困っている。新五郎の妻子は8人、孫七郎親子供は10人。平太夫義のせがれの平八の妻子は5人。とても困っている。朝昼に悲しみに明け暮れている。他にいる3人の者どもの親類も、許されるのを願っている。近年御役所まで訴訟申し上げども、取り上げてくれない。殿様は御在番でお越し遊ばれているので、今年は役所までたびたび訴訟申し上げている。恐れながら、3人を許してくれるよう慈悲をくれ。