大佐倉
From Wikipedia, the free encyclopedia
小字
北は大佐倉干拓、北東は酒々井町印旛沼新田、東は酒々井町酒々井、南東は酒々井町本佐倉、南は将門町、南西は千成、西は飯田、北西は飯田干拓に隣接している。
飛地があり、将門町、酒々井町本佐倉、酒々井町上本佐倉に隣接している。
- 花輪台(はなわだい)
- 作の下(さくのした)
- 大桜(おおざくら)
- 大御堂(おおみどう)
- 松山(まつやま)
- 松山台(まつやまだい)
- 梨の木(なしのき)
- 剣谷(つるぎだに)
- 駒込(こまごめ)
- 池田(いけだ)
- 根崎(ねさき)
- 池下(いけした)
- 長辺田(ながべた)
- 鳥井戸(とりいど)
- 入子(いりご)
- 浜宿(はまじゅく)
- 松合(まつあい)
- 宮下(みやした)
- 東松合(ひがしまつあい)
- 嶋下(しました)
- 将門新畑(まさかどしんはた)
歴史
江戸期は大佐倉村であり、下総国印旛郡のうち。佐倉藩領。村高は『元禄郷帳』528石余、『天保郷帳』『旧高旧領取調帳』ともに537石余。なお『旧高旧領』では八幡神社除地・勝胤寺領がそれぞれ20石ずつ見え、ともに天正19年に賜った朱印地である。村の反別は田36町余・畑21町余。安政4年『領分村高帳』によれば、高120石余が諸役御免となっており、小物成として夫役永1貫105文余・茶園栗代永250文・山銭鐚921文・草銭鐚526文が見える(旧佐野家文書/千葉市史史料編2)。浜宿河岸があり、佐倉城主所替の節御用荷物積場となった。また、同河岸は印旛沼岸交通の要衝で、幕末には水戸天狗党の侵入を防ぐ見張番が置かれた。将門御林は文久年間に一部が武家屋敷地となった。神社は口之宮神社・八幡神社など、寺院は真言宗宝珠院・曹洞宗勝胤寺(印旛郡誌)。なお、佐倉藩主堀田正亮は宝暦2年の惣五郎百回忌にあたり、惣五郎に法名をおくるとともに口之宮神社に合祀し、同社別当宝珠院に対し年々米15俵を下付したという。明治6年千葉県に所属。明治22年内郷村の大字となる[5][6]。
沿革
世帯数と人口
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7][8]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 1~1907 | 佐倉市立佐倉東小学校 | 佐倉市立佐倉中学校 |
| 1908~1931 | 佐倉市立佐倉東中学校 |